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​不来方から

​不来方から

盛岡管轄区の教会報「不来方から」の一部の記事を抜粋して掲載します。

12月号
​巻頭
「洞は天となり、童貞女はヘルヴィムの宝座となり」

 洞穴というとどのようなイメージが思い浮かぶでしょうか。暗くジメジメしてコウモリや虫たちが住むような場所、石器時代の人類の住処、神秘的な景色を内包した暗闇。人によってさまざまな洞穴像があるかも知れません。正教会の伝統では、主ハリストスは洞穴で生まれたとされています。ルカによる福音書を読むと、臨月となった生神女は「客間には居場所が無かった」ので、生まれた子を「布にくるんで飼い葉桶に寝かせた」とあります(2:7)。飼い葉桶とは家畜の飼料入れであり、主は家畜のいる場所で生まれたということになります。そのため西洋絵画などではクリスマスは馬小屋を舞台として描かれます。一方で東方教会では当時のユダヤ地方では家畜を洞穴で飼っていたことが知られていました。ですからイコンにおいてイイススの誕生の場面は、洞穴の中に横たわる生神女と飼い葉桶に寝かされたイイスス、それをのぞき込む動物たちという構図で描かれます。


 正教ではこの「イイススが洞穴に生まれた」ということをとても重要な事柄として捉えます。それは歴史的に馬小屋か洞穴かどちらが正しいのか、ということよりもその象徴的な意味においてです。最初に書いたように洞穴から受けるイメージとはまず「暗さ」です。あるいは「不気味さ」「危険さ」。その暗闇の中に人が「住む」イメージ。この世の救い主、新しい王と呼ばれる方が生まれるにはあまりに不釣り合いな場所です。洞穴が象徴しているのは、私たちが住んでいるこの世界そのものに他なりません。人間が神を忘れ、神を拒み、私たちの人生から神を追い出してしまって以来、この世は闇に閉ざされた洞穴となってしまいました。そこはジメジメと暗く、得体の知れない気持ち悪い生き物が跋扈する世界です。人間が善良な心を持てず、暗い欲望や重苦しい憎しみに囚われ、ひたひたと迫ってくる死の恐怖に怯えながら住んでいるのがこの世界という洞穴です。主が生まれたのは一応は屋根や塀のある馬小屋ではなく、ましてふかふかのベッドがしつらえてある暖かい宿の客室でもなく、この洞穴であることが私たちの信仰にとってとても重要な意味を持っているのです。


 しかし降誕祭の祈祷で、私たちは「洞は天となり」と歌います。薄暗く不気味な洞穴は、明るく神の栄光に満ちた天とは真逆の場所に思えますが、そこに主がいるのであればそここそが天になるのです。この世が暗く危険な場所であるのは神が欠けているからです。神を人生の外側に追い出そうとした人間の罪ゆえです。しかしひとたび神の到来を受け入れるのであれば、夜は昼のように輝き、暗い洞穴は神の座として光が溢れる場所となります。私たちが降誕祭を喜び祝うのはこのためです。人間の弱さと罪深さのために暗くなってしまったこの世界に、主ご自身が光をもたらすために来てくださったことが降誕祭の喜びなのです。

​エッセイ
​「けっとばされてきたものは」

 先日詩人の谷川俊太郎氏が永眠されました。私自身、学生時代に合唱をやっていた時に谷川氏の詩を歌にした作品をずいぶん歌ったこともあり、氏の詩には個人的な思い入れがあります。その中から今日は「サッカーによせて」という詩を紹介します。

けっとばされてきたものは
けり返せばいいのだ
ける一瞬に
きみが自分にたしかめるもの
ける一瞬に
きみが誰かにゆだねるもの
それはすでに言葉ではない

泥にまみれろ
汗にまみれろ
そこにしか
憎しみが愛へと変わる奇跡はない
一瞬が歴史へとつながる奇跡はない
からだがからだとぶつかりあい
大地が空とまざりあう
そこでしか
ほんとの心は育たない
希望はいつも
泥まみれなものだ
希望はいつも
汗まみれなものだ
そのはずむ力を失わぬために

けっとばされてきたものは
力いっぱいけり返せ

 これは子供がサッカーをしている様子を見たときに着想した詩だと聞いた記憶があります。自分のところに飛んできたボールをより前に蹴り出して進んでいくその姿を、谷川氏は美しい言葉で綴っています。谷川氏は特にキリスト教を信仰していたわけではなかったようですが、しかしキリスト者の目線で彼の詩を見たときに、時としてハッとするような表現に出会います。


 人生で起こる様々な出来事をボールと呼ぶのなら、私たちの元には神から様々なボールが投げ込まれてきます。イージーなボールも捌きにくい難しいボールも来ます。それを丁寧に蹴り返していくこと。つまり応えていくことが私たちの人生であり、それは生神女が「あなたが神の子を生む」と問われたときに「そのようになりますように」と応えたことと本質的には同じことです。どのように返していくかは私たち一人一人の自由意志に委ねられており、またそのプレーの中では蹴り損ねることも転ぶことも、まさに「泥まみれ、汗まみれ」になる事もしばしばです。しかしこの詩人の言葉によれば「そこにしか奇跡はない」。


 そして私たちが神の問いかけに応えること、それは自分の答えを神にすべてゆだねることです。その繰り返しはもはや「それはすでに言葉ではない」。人間のエゴイズムの限界を超えた彼我のかなたに自分を限りなく投射していく、その姿こそが私たちの人生の本質なのではないかとこの詩は気付かせてくれるような気さえするのです。

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