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​不来方から

​不来方から

盛岡管轄区の教会報「不来方から」の一部の記事を抜粋して掲載します。

3月号

​巻頭

​自分の十字架

 ハリストスは「私に従う者は自分を捨て、自分の十字架を背負い私に従いなさい」(マルコ8:34)とおっしゃっています。この福音箇所は大斎の三つめの主日である「十字架叩拝の主日」に読まれますが、「自分を捨てる」「自分の十字架を背負う」とはいったい何を示しているのでしょうか。

 ハリストスにつき従おうとする時、私たちは多くの邪魔な「荷物」を捨てなければなりません。罪深い習慣、傲慢さ、怠惰さなどの「心の荷物」がそれです。その中でも特に厄介なのが「自分のこだわり」というものです。私たちはしばしば、「どうしても譲れないこだわり」を持っています。それにこだわることで、私たちは自分自身の存在価値を確認し、他人と自分を見比べ「ああよかった、自分は確かに意味のある人間だ」と安堵します。それは仕事へのプライドであったり、家族への義務感であったり、場合によっては教会へ奉仕をしている自信であったりします。私たちは「自分のこだわり」、あるいは「自分のスタイル」というものを確立し、それを壁として自分を守り、壁の外側の他者を異物として区別し、あるいは自分のこだわりにそぐわない他者を攻撃します。


 また、自分自身の強みではなく、弱さやダメな部分が「こだわり」になってしまう場合さえあります。自分の不幸や罪深さをひたすら抱え込み、それを捨てたり、救いを願ったりするよりむしろ、「かわいそうな自分」「ダメな自分」をアイデンティティ化して自らを慰めます。


 私たちがハリストスに従う時に捨てなければならないのはこのような、「自分を自分たらしめていると思い込んでいるこだわり」なのです。以前訪問したある修道院の院長が「多くの人が修道院に自分の『心の荷物』を持ったままやってきて、そして荷物がつっかえて門をくぐれないまま去っていく」と語っていました。私たちはなかなかこの「自分の心の荷物」を置いていくことができません。

 では一方で「自分の十字架を背負う」とはどういうことでしょうか。これは「自分のこだわり」とは真逆の「神から与えられた課題を行うこと」です。それが何なのかは人によって様々です。聖使徒パウェルはヘブライ人への手紙の中で「いっさいの重荷と、からみつく罪とをかなぐり捨てて、わたしたちの参加すべき競走を、耐え忍んで走りぬこうではないか。(エウレイ12:1)」と言っています。この競争のコースを作るのは私たち自身のこだわりではなく神の旨です。神が私たちにこの世の仕事や、家族や、教会での仕事を与えたからこそ、私たちはそれらの課題に取り組むのです。それらは私たちのこだわりを形作るためのツールではありません。

 ハリストスに従う、ということは「自分が自分自身の人生の主人であることをやめ、神を信頼して人生を預ける」ということです。実はそれを最も体現したお方がハリストスその方です。ハリストスは神であるのに、また永遠に無罪で死とは無縁の方なのに、十字架にかかり死ぬという課題を受け取りました。私たちが自分のこだわりを捨て、神の旨を第一として生きるということの究極の姿はここにあります。


 ですから私たちも「ハリストスに従う者」として、ハリストスの姿に倣わねばなりません。両手いっぱいに「心の荷物」を抱え込んでいたら、背負うべき十字架を手に取ることはできないのです。まずはプライドも、劣等感も、すべてのこだわりを手放して、自分の目の前の課題を素直に手に取りましょう。そしてその課題に取り組む時に、自分のこだわりではなく、神の旨を第一とすることを心がけねばなりません。それはとても難しいことです。また自分の行いが本当に神の旨なのか、あるいは自分自身のこだわりなのか分からなくなる時もあるでしょう。そのような時は神に正しく導いて下さるように祈りましょう。謙遜に祈ることが、自分の背負うべき十字架を照らし、私たちをハリストスの元にまで導いてくれるからです。そして私たちはその道のりの果てに、神の栄光に至ることができる、という希望を持っています。その希望をいつも胸に温め、この困難な道のりを歩んでいきたいものです。

エッセイ
​「悪意に悪意で向き合ってどうする」

 私はアニメが好きでたまに視聴するのですが、ここ数年で特に気に入ったものに「宇宙よりも遠い場所」という作品があります。この物語は日本の高校に通う普通の少女たちがひょんなことで南極探検隊に加わる、というものです。その中に、一部のクラスメイトたちが、南極に行くことになった主人公たちについて根も葉もない噂話や嘲笑をしており、その事実を主人公たちが知らされる、という場面があります。メンバーの中でも特に南極にこだわりを持つ気の強い女の子が大いに憤って「絶対に犯人を見つけて抗議する」と息巻くのですが、それを別の子が「人には悪意があるんだ、悪意に悪意で向き合ってどうする。胸を張れ」とたしなめます。


 初めてこの作品を見、このセリフを聞いた時に「なんと真実な言葉だろうか」と胸に刺さりました。そう、残念ながら人には悪意があります。そして時として、自分に何の落ち度もないのに、誰かから突然その悪意が向けられることもあるのです。そのような時、当然私たちの心は困惑し、悲しくなり、そして怒ります。「どうして私は何もしていないのにこんな目に合わなきゃいけないの!?」と。私たちは憤り、心の中で恨みのこもった言葉をつぶやき、場合によってはそれを相手に、あるいはまったく関係ない他者にぶつけます。まさに「悪意に悪意で向き合う」のです。悪意に悪意で応答した結果、より大きな悪意が生み出され、その悪意は巡り巡って世界中を汚染していきます。それはもしかしたらやがて、世界の裏側で誰かが銃を乱射したり、民族浄化が起きたり、人と人とが殺し合ったりすることに繋がっているのかもしれません。私たちが「悪意に悪意で向き合う」ということは、このような悲劇に加担することに他ならないのです。


 ですから私たちは「悪意に悪意で向き合う」ことをすぐにやめなければなりません。そんなことできない、と思ったなら、それをただ一人実現した方を思い出しましょう。何の罪もないのに、逮捕され、嘲られ、痛めつけられ、そして殺されたイイスス・ハリストスです。ハリストスはユダヤ人たちの悪意に悪意を向けず、むしろ彼等の為に祈りました。それが何をもたらしたか、人間の救いをもたらしたのです。私たちも人からの悪意にさらされた時こそ、それに悪意で応えず、そしてそれを実現できる強さを得られるように神に祈りましょう。神の助けを得て、私たちもハリストスのように「悪意に悪意で向き合わない」者とならねばならないのです。

(ちなみにこのアニメ、他にも考えさせられるシーンやセリフがたくさん詰まっており、かといってまったく説教臭くなくて大変面白いのでおススメです)