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​不来方から

​不来方から

盛岡管轄区の教会報「不来方から」の一部の記事を抜粋して掲載します。

12月号

​巻頭

神は我等と偕(とも)にす

 生神女の婚約者イオシフ(ヨセフ)は、妻の懐妊を知った時に、天使から「生まれてくる子供は神によって宿った救世主であり、『その子はエンマヌイルと呼ばれる』というイサイヤの預言の成就である」と告げられました。エンマヌイルとは「神は我等と共にす」という意味の言葉であり、降誕祭の前晩祷でも行われる晩堂大課において私たちが祈る言葉でもあります。では「私たちと共に神がいる」とはどのような意味なのでしょうか。

 それは決して「いつでも神様は見ているよ」とか「神様はいつもそばにいるよ」という漠然とした慰めの言葉ではありません。またあるいは「神は形の無い存在で、どこにでもいるしどこにもいない」という謎かけのような意味でもありません。私たちが「神は我等と共にす」と唱える時、本当にハリストス(キリスト)は私たちと共にある、という力強い宣言をしているのです。


 「神が人となった」と教会は教えます。「神が人の『ようなもの』となった」わけでも「神が人のように『見えた』」わけでもありません。本当の意味で神は「イイスス(イエス)」という一人の人間になったのです。神は「見えない者と見える者」「非物質的な者と物質的な者」そして何より「造った者と造られた者」という、越えられないはずの断絶を越えて、私たち人間の一員となって下さいました。まやかしの姿ではなく、本物の人間になったのです。またイイスス・ハリストスという方が、ある日突然大人の姿で人々の前に現れたわけではありません。イイススは赤子として生まれました。神が本当の人間となるために、神にもまた母の胎が必要でした。私たち人間が母の胎内で育まれるように、ハリストスも生神女の胎によって人間として育まれました。そして「全能の神」であるのに「無力」な幼子としてこの世に生を受けたのです。そこまでして神は「本当の人間」になりました。


 だからこそ私たちはハリストスを本当の救い主、メシアと呼ぶことができます。神である方が人間となり、人間全体が清められます。ハリストスが本当の人間だから、神の救いが私たちの人間性全てに及ぶのです。ナジアンゾスのグレゴリオスという偉大な聖師父は「ハリストスによって受け取られなかったものは癒されない」と言っています。ハリストスが母の胎内、幼子としての誕生を経て、大人へと成長したから、そして死んだから、すなわち私たちと同じ人生を歩んだからこそ、私たちは清められます。さらに復活と永遠の生命を、人間に先駆けて、人間の身をもって示して下さったからこそ、私たちは「私たちにもまた復活と永遠の生命がやがて実現する」という希望を持つことができるのです。

 神が本当の人間になったので、もはや神は私たちにとって「他人」ではなくなりました。降誕祭の喜びは、そして私たちが神に向かって「私たちと共にいる!」と叫ぶ理由はここにあります。ハリストスは私たちのために、私たちと同じ本物の人間となり、そして今なお神でありながら人間であり続けています。まさに神は「私たちとともにいる」のです。私たちはその喜びを、この来たるべき降誕祭で共に祝おうではありませんか。


「神は我等と偕にす!」

※降誕祭は1月7日に行われました。

エッセイ
​神さまとあそぼう!

 先日とある本を読んでいて、その一節にハッとしました。「ある聖人が子供にこう言った、『いいかね、もしお前が主なる神と遊ぶことができたら、それは誰にもできなかったすごいことになるのだ。世界中が神をあまりに深刻に捉えて来たから、神は致命的に退屈なものにされてしまったのだ。神と遊びなさい、息子よ。神は最高の遊び友達なのだ』」(P・エウドキモフ「神の狂おしいほどの愛」)。


 神さまの立ち位置を人に置き換えてもそうかもしれない、と思いました。うやうやしくお客様扱い、あるいは機嫌を損ねないようにビクビクと、それでいて結局他人行儀に扱われ続けたら、その人との関係は極めて退屈なものになるだろうな、と。それならまだしも「あ~、はいはい、神さまね。適当にお茶でも出して帰ってもらって」のような扱いをされたら、神はどれだけつまらないとお感じになるでしょうか。はて、私たちは神とちゃんと「遊んで」いるだろうか、私たちは神と「友達」なのだろうか…。

 そのように考えると、お祈りは「神さまとのお話し」、聖体礼儀は「神さまとのお食事(飲み会?)」。聖書では神の国はしばしば宴会に喩えられますが、神の国の先取りである聖体礼儀とは、まさに神さまとの「宴会」なのです。もちろん大切なお祈りですから慎みと畏れをもって参祷することはとても大切なことです。「食事」には「マナー」や「行儀」があります。しかし、それ以上に「今日は神さまと宴会だ!うれしい!」という喜ぶ気持ち、楽しみにする気持ちを神は期待しているのかもしれません。神自らが宴会を主催して、ご馳走も用意して「さあ、みんな、一緒に楽しもう!」と待ち構えているのです。神は、普段来られない人が来たら「おお!よく来た!まずは席について楽しんで」と肩を抱いて歓待してくださるような方です。聖体礼儀に参祷することは「信者のつとめ」です。しかし招いた客が義務感だけで宴会にやって来たのなら、少し寂しいですよね。ここはぜひ「神さまと遊ぼう!」「宴会を楽しもう!」という気持ちも忘れないでください。神さまはいつでも私たちと一緒に「遊びたい」のですから。

 (余談。神の国が宴会だとすると、司祭は飲み会の幹事でしょうか。出席者を集めて、お店の段取りをして、司会をやって…。)

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