不来方から
不来方から
盛岡管轄区の教会報「不来方から」の一部の記事を抜粋して掲載します。
6月号
巻頭
「我ら五旬祭及び聖神の降臨、許約の成就、希望の満足を祝う」
聖体礼儀において最も重要な箇所はどこでしょうか。それは言うまでもなく、私たちの捧げたパンとぶどう酒がハリストスの体と血、すなわち聖体となる聖変化の箇所であり、それを私たち一人一人が領食する領聖の場面です。そして何がただのパンとぶどう酒を主の体と血に変えるのかと言えば、それは聖神の働きということになります。司祭が「これ我が体」「これ我の新約の血」というハリストスの機密制定の言葉を宣言し、祭品を高々と捧げたあと、聖歌が歌われる裏で、司祭は「(略)爾(神・父)の聖神を我ら及びこの供えたる祭品(パンとぶどう酒)に遣わし給え」と祈っています。私たちの捧げる聖体礼儀は、私たちと祭品と、祈り全体に神・聖神が満たされるからこそ成就されるものなのです。
私たちは神に創造された存在であると教会は教えます。神は大切に愛をこめて世界を形作りました。そしてその創造物は神・聖神に満たされることによって完成します。聖神は至聖三者のお一方であり、神・父から出る方であり、私たちに遣わされる方です。聖神に満たされることによって、ただの地上の物体であるパンとぶどう酒が、主の体と血に変えられます。私たち一人一人も、聖体を受けることで聖神に満たされて、ハリストスと一致し至聖三者の交わりに入れられます(領聖後に歌う聖歌「すでに真の光を見、天の聖神を受け」という言葉を思い出してください)。それこそが神が計画した人間のあるべき姿であり成就です。人間のみならず被造物全体は聖神に満たされることによって完成し、そのあるべき形を示します。
神・聖神は五旬祭の日に使徒たちに降り、彼らに異国の言葉を語らせました。イイススの弟子たちはかつて「不完全」なものでした。主を愛してはいるけれども勇気が無く、知恵が無く、主から「信仰の薄いもの」と叱られる人々です。しかし彼らは聖神を受け、変えられました。より正確に言うのならばあるべき姿へと成就されました。勇気と深い知恵を持ち、篤い信仰によって主の教えを世界中に宣べ伝える「使徒」へと完成されたのです。彼らが知らない異国の言葉を語ったことは、端的にその成就を指し示しています。
この「完成」「成就」は決して私たちにも無縁のものではありません。私たちすべてがこの完成へと招かれているのです。しかもこの完成は「完成」したら終わりというものでもありません。普通であれば完成とはゴールであり、これ以上の改善の余地がないところまで突き詰めたからこその「完成」です。しかし聖神に満たされる成就とはそのようなものではありません。聖使徒パウェルが言うように、私たちは「栄光から栄光へと(コリンフ後3:18)」変えられていきます。成就し、完成したとしてもそこで止まる歩みではなく、完全なものはさらに完全なものへと前進し続けていくのです。私たちキリスト者が置かれているのはそのような道です。そしてその道は聖神に満たされることによって前に進み成就することができる旅路です。聖神降臨の出来事を祝う時、私たち自身もその旅路の上にあり、使徒たちがそうであったように、聖神によって成就されつつあることを忘れてはならないのです。
エッセイ
「大谷翔平」
3月に行われた野球の世界大会WBC、私も夢中になって見ていました。とりわけ岩手県奥州市出身の大谷翔平選手の活躍に胸が躍ったのは私だけではないことと思います。大谷選手は大会が終わりレギュラーシーズンが始まっても変わらぬ活躍をしているようです。それを支えているのは、今までの豊富なトレーニング量、食事や睡眠、休息などの徹底した自己管理、何より野球が全てというような究極のモチベーションの高さなのでしょう。WBCでともに戦った他の選手たちでさえ、大谷選手の「意識の高さ」には驚かされたようです。私は大谷選手を「まるで『野球の修道士』だなぁ」と感じました。
修道士というと一般的に禁欲的で厳しい修行生活に身を置き、この世の喧騒や楽しみから距離を置いて神一筋に生きるイメージが持たれるのではないでしょうか。そしていつも厳しく難しい顔をしているような。しかし実は必ずしもそうではありません。彼らが禁欲的で、神一筋なのは本当です。しかしそれは修道生活が何よりも楽しく喜ばしいので、もはや彼らに他の楽しみは必要ないという状態になっているからなのです。修道士たちは苦行としてこの世の楽しみや喜びを遠ざけているのではなく、祈りの生活と比べたらそこまで楽しくもない事柄に、おのずと興味を失っているだけとも言えます。楽しみを遠ざけることの辛さに耐え、我慢に我慢を重ね、というのとは違うような印象を受けます。
大谷選手はスパゲティに塩だけを振りかけたものを食べているそうです。パスタの大好きな私から見ると「そんなマズそうな……、食の楽しみもなくて可哀そう」と勝手に同情したり感心したりしますが、たぶん彼自身にとってはパスタが美味しいかどうかよりも、身体のコンディションを整えて、充実した状態で試合に臨める方が喜びだし、純粋な楽しみなのでしょう。大谷選手があらゆる楽しみを遠ざけて、根性論で野球に取り組んで、いつも難しい顔をしているでしょうか?そうでないことは皆さんもよく知っていると思います。グラウンドでボールを投げて、打って、走ることが何より楽しいという笑顔だからこそ、日本でもアメリカでもファンを虜にしているのではないでしょうか。
これを正教徒である私たち自身に置き換えてみると、なかなかその境地に至ることは難しいと感じるかもしれません。例えていうなら聖人と言われるような人々が大谷選手クラスです。一方で私たちは草野球チームで、試合よりもむしろそのあとのビールの方が楽しみという、中年太りのおじさんたちのような存在かもしれません。比較にもならないようなレベルの差です。しかしだからと言って卑下することもないのです。草野球でも投げて打って「楽しい!」と思える瞬間は確かにあるのだし、大谷選手の活躍を見て「久しぶりにちょっとキャッチボールでもやるか」と思えたりもするでしょう。その瞬間、確かに「野球が楽しい」という点で、おじさんたちと大谷選手は同じ地平に立っています。私たちも日々の祈りの中で、「あ、これはとても良い」と思えたならば、それは聖人たちと繋がった地点に立っているということです。大いに楽しみましょう。