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​正教会とは

​正教会とは

 まず初めにお断りしておかなければならないことは、ここにこれから書いてあることは、あくまで正教会についてのほんのわずかな概論である、ということです。正教の奥深さについての「ご招待」であって、学問的な「解説」ではありません。より詳しく正教について知りたい方は、ぜひお近くの正教会を探してそちらを実際に訪ねてみてください。

 

 およそ2000年前、一人の男の子がユダヤの地、ベツレヘムという小さな町で生まれました。彼はイイスス(イエス)と名づけられます。イイススは神の国の到来を人々に教え、多くの病人を癒し、様々な奇跡を行いました。しかし彼の活動に当時のユダヤ教の指導者達は危機感を覚え、イイススは十字架に磔にされ殺されてしまいました。しかし、イイススは三日目に墓からよみがえり、彼の弟子たちのもとに現れました。そして40日を彼らとともに過ごしたのち、イイススは天に上がっていきました。

 このイイススを「人となった神の子」と信じ、彼こそが救世主「ハリストス(キリスト)」であると救いの希望を持つのがキリスト教です。その中でも私たち正教会はイイススの直弟子である使徒以来、イイススと使徒たちの伝統を正しく守り伝えていると確信している教会です。

 キリスト教は、イイススの昇天の直後から、使徒たちによって世界中に宣教されました。紀元1世紀の世界にあって、西はスペインから東はインドに至るまでハリストスの教えは伝えられたのです。キリスト教の最初の三世紀は帝国による迫害の時代でした。多くのキリスト者がその信仰を守るために致命(殉教)し、それによって教会はますます強められていきました。やがてローマ帝国もキリスト教の存在を認め、後にはキリスト教がローマの国教となったのです。

 

 しかし不幸なことですが、キリスト教は次第にギリシャ語を話すローマ帝国東方の教会と、ラテン語を話す西方の教会に分裂していきました。これにはいくつもの理由が複雑に絡み合っており、簡単に説明することは困難です。西方教会は「聖神(聖霊)」に関して、独自の理解を教義に盛り込みました(フィリオクェ論争)。さらに教会の権力をローマ総主教、すなわち教皇に集約することで強力な教会組織を作り上げ、今日「ローマカトリック」と呼ばれる教会が誕生しました。一方で従来の教義を変えることなく守り、教皇権が東方に及ぶことを否定した教会は、「正教会」と呼ばれて今日に至ります。(ただし、これは西方教会離脱の全体像ではありませんし、教会の東西分裂があるとき突然、決定的な事件によって起こったわけではないことに留意せねばなりません)

 教会から西方の領域が分断されてしまったことは不幸な歴史ですが、その時代に新しく正教の光が届いた地域もあります。それは今日ロシアやウクライナと呼ばれるスラブ人たちの住む地域でした。「ルーシ」と呼ばれる人々が正教会を受容したのは、今からおよそ1000年ほど前になります。それ以来ルーシの地、すなわちロシアは正教会の一大拠点となり、そこでは正教の精神性や文化が大きく花開きました。

 正教会は自らをニケア・コンスタンティノープル信経(信条)で告白するところの「一つの聖なる公なる使徒の教会」である、と自認しています。「公」である、ということは「正教会がただの民族宗教、国家の教会なのではなく、その正しさは世界中に普遍的に通用し、宣教されるべき教会である」ということを意味しています。今日「正教会」というとロシアやギリシャ、あるいはルーマニアやブルガリアなどの東欧諸国のイメージが強いですけれども、本来はそこに止まらず、世界中に遍くあるべき「たった一つの聖なる教会」なのです。

 また、私たちは教会を教会たらしめている聖なる伝統は、イイススから使徒たちへ、使徒たちからその後継者である主教たちへ受け継がれ、今日の正教の教会の中に息づいていると信じています。聖なる伝統とは、聖書、公会議の決定事項、教義、奉神礼(礼拝)の方法、聖職者の位階、聖堂、イコン、などのものです。正教会は信仰上の父祖から受け継いだものを、そのまま間違いなく次の世代に渡す、という形で伝統を守り、そこには聖神(聖霊)の働きがある、と信じています。

 「正教」はギリシャ語で「オルトドクサ」、英語では「オーソドックス(Orthodox)」と呼ばれています。これは「正しい(オルソス)」「祈り(ドクサ)」を意味する言葉であり、正教会の特徴をはっきりと表しています。私たちは祈りをとても大切にします。神と人との愛ある交わりは祈りの中にこそあると信じているからです。私たちは神への愛、神への感謝、神への願いを祈りの形で表現します。正教会は使徒の時代以来、この祈りの本質を連綿と引き継いできました。だからこそ私たちは「オーソドックス」を名乗るのです。

​日本の正教会

 私たち日本の正教会はロシアから伝えられました。1861年、幕末の蝦夷地にニコライ・カサートキンという一人の若い修道司祭が上陸しました。彼はまだキリスト教が禁止されていた日本で、日本語や日本文化を学び、来るべき宣教開始の日を待ちました。やがて明治に時代が変わり、彼は日本での宣教活動を始めます。その時に最初の拠点となったのが、北海道函館の教会でした。今日、観光地としても親しまれている「函館ハリストス正教会」です。ニコライは宣教の中心は日本の首都であるべきであると考え、東京の神田駿河台の地に土地を購入し大聖堂を建立します。これが現在の「東京復活大聖堂」、通称「ニコライ堂」です。ニコライは精力的に日本全国を宣教して最盛期には3万人近い信徒が日本全国にいたと言われています。

 ここ盛岡の地にも明治初期に正教が伝えられ、最初は加賀野に聖堂が設けられました。最初の聖堂は武家屋敷を買い取ったものであったと言われています。1961年(昭和36年)に現在の高松に移転され、現在の聖堂が建設されました。高松の池のほとりに位置する丘の中腹に建つ聖堂は、下を走る国道4号線のバイパスからもよく見え、良い景観を作っています。また教会のある丘からは盛岡市を一望でき、天気のいい日には岩手山も正面に見えるという絶好のパノラマを備えています。

​正教会は何を信じているか

 正教会に限らず、キリスト教はこの世界は神によって創造された、と信じています。それは科学的な宇宙論や進化論の否定、などという意味ではなく、この世界が存在することには神の意志があり、神が目的を持ってこの世界を造った、ということです。では神はなぜ世界を造ったのか。私たちは神を愛の方である、と信じています。ですから神はこの世界を「神が愛するもの」として創造された、ということになります。神は見える世界(物質的世界)、見えない世界(非物質的世界)を創造し、そこを造物で満たしました。それは「はなはだ善い」ものであると神が言った、と聖書は伝えています。世界は大変に素晴らしいもので、その素晴らしい世界の代表として、世界を愛し、よく守り、神に感謝を捧げ、神との愛の交わりのうちに生きる存在として人間が造られた、と正教会は教えています。神に「よく似たもの(神の像)」として神の持つ良き能力(愛、創造性、知恵、自由な意志など)を与えられた人間は、その能力を用いて神と世界の仲立ちとなることを期待されていました。さらに、人間には「神との交わりの中にどこまでも神に似ていくことができる可能性(神の肖)」まで与えられていました。

 しかし人間はその役割に失敗してしまいます。アダムとエヴァは蛇の誘惑に負け「善悪の知識の実」を食べてしまいます。その時に蛇は「これを食べると神のようになれる」と言って彼らをそそのかしました。それは、人間が神に代わってこの世界の支配者となればよい、という誘惑に他なりません。神とともにあってこの世界を生かしていくはずの人間が、神に背を向けこの世界の暴君として振舞う道を選んだのです。人間の傲慢さは次々と新しい罪を生み出し、この「はなはだ善い」はずの世界を汚染していきます。そして、神から離れた人間は、神の永遠性という恵みを失ってしまったので「塵に帰るもの」すなわち死ぬものとなった、と教会は教えます。

 その人間と世界を罪と死から救うためにこの世に来られたのが「神、子」、あるいは「神の言」と呼ばれる方でした。このお方は「神、父」とまったく同じように「神である」と教会は信仰を告白します。全ての時間の外側で、つまり永遠において「父から生まれた神の子」です。このお方が処女であるマリヤを通してこの世界に入り、イイスス(イエス)と名付けられました。イイススは完全な神でありながら、完全な人間です。私たちが人間であるのとまったく同じように、一人の人間としてこの世にお生まれになったのです。イイススが「どのように」「どのような様式で」完全な神であって完全な人であるのかについて、正教会は多くを語りません。人間の論理的知性では分からないからです。神の神秘の領域のことには沈黙を守るという、知的な事柄に対しての姿勢が正教会にはあります。私たち正教はイイススの神性と人間性については「この二つの本性が混合されることなく、変化することなく、分割されることなく、離されることがない」ということ、そしてイイススは完全に一つのお方(位格)であることを確認するのみです(カルケドン第四全地公会)。

 むしろ、神が人となったことの意味でもっと重要なのは、「神が人となることで人間性全体が浄められた」ということです。このことは「神が人となったのは、人が神となるためである」という聖大アタナシオスの言葉で私たちに伝えられています。神ご自身が人間となって、人間の失敗を再びやり直してくださったので、人間本性全体がその本来あるべき姿を回復できるようになりました。正教会には「テオシス(神成、神化)」という考え方がありますが、これは私たち人間が神との交わりの中に、限りなく神に似たものとなっていくということです。私たちは神の似姿として創造され、さらに神に似ていく可能性を与えられていました。私たちは罪によってこれらを大きく傷つけてしまいましたが、イイスス・ハリストスによって浄められた人間性は再びこの可能性を取り戻しました。聖使徒パウェルはこの「神化」についてこのような言葉で表現しています。「わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。(第二コリント3:18)」。あるいは偉大な聖師父であるマキシモスは「神化」を、鉄(人間性)が炎(神のエネルギー)に熱せられ、炎の性質を持った鉄(神化された人間)になることに例えました。この「テオシス」は正教徒の究極的な目標である、ということができるでしょう。

 また、私たちは「神、聖神(聖霊)」を信じています。聖神は私たちに神の子ハリストスを指し示し、私たちをハリストスとの合一に導きます。また聖神は「神、父から出る」お方であり、「父」と「子」とともに「至聖三者」、三位一体の神であると正教会は信仰を告白します。三位一体とは、神とは「父」と「子」と「聖神」という三者であるが、しかし一つである、ということです。古来からこの私たちが理論的には理解できない命題について説明が幾たびも試みられてきましたが、それはいずれも神の神秘を表現することはできませんでした。これは私たちが理論的に証明することではなく、神からの啓示によって直接「知る」ことです。私たちにとって重要なことは、三位一体の理論的様式ではなく、至聖三者が完全に一致した愛の中にあるお方である、ということです。なぜならば、神の像として造られた私たちには神の性質が反映されているので、神が「完全な愛」のお方であるならば、人間もまた愛の存在であるはずだからです。人が神を愛するものであること、人が人を愛するものであることは、私たちの原型である神に由来することであり、私たち人間にとって本質的な事柄である、と正教会は考えます。

 私たち正教会はイイスス・ハリストスの復活について「肉体をもっての復活」を信じています。決して霊だけが人々に現れた、とか、イイススの死が人々に強烈なインスピレーションを与え「復活体験」を感じさせた、という解釈には与しません。私たちが信じるハリストスの復活は、本当の意味での復活、一度間違いなく死にそして復活したイイススが、完全な霊と肉体をもって使徒たちや人々に現れ、実際に食べたり、飲んだり、触れたりした、という復活です。それがいくら私たちの知る「常識」とかけ離れていたとしても、ここに妥協はあり得ません。私たちは使徒たちが目撃し、そして伝えてきたことを信じています。

 ハリストスは人間すべての罪の為に十字架にかけられ死んだのみならず、自らの死を以て死に勝利し、私たち人間に永遠の生命を与えました。ハリストスが人間性全体をもって復活したのだから、ハリストスの人間性に連なる私たち人間もまた復活することができるようになりました。もちろんこの世において私たちにはいまだ死が訪れます。私たちの肉体は喪われてしまうように見えます。しかし「復活の日」、私たちは復活し、栄光に輝く新しい肉体を得て永遠の生命に入れらる、と教会は教えています。これが正教会の持つ「希望」なのです。

 そしてイイスス・ハリストスは私たちが主の復活に与り、ともに永遠のものとなるために一つの道筋を用意してくださいました。それは「洗礼を受け、主の体と血である聖体を領食する」という方法です。これは私たちを罪と死から救い出し、永遠の命を与える、新しい神と人との約束です。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者には、永遠の命があり、わたしはその人を終りの日によみがえらせるであろう。(ヨハネ6:54)」という主の言葉を信じているからです。聖体を受けることで私たちはハリストスの体と一体になり、教会は「ハリストスを頭とした肢体」となります。聖体を受ける者はハリストスに連なり、ハリストスとともにあって永遠の生命を受けます。ですから正教徒は毎週日曜日に、聖体礼儀を行い、神に感謝を捧げ、その恵みの賜物を受け取るために教会に集うのです。

​教会へのご招待

​ ここまで、長く書きましたが、正教会についてこの場ですべてを語り、解き明かすことはできません。また、「読む」ということだけで正教会の真の理解に至ることは絶対に不可能です。また私たち正教徒自身も、正教全体を理解し、真理を完全に知っているわけではありません。それほどまでに正教会は奥深く、神秘の側面を多く残しています。ですから、もし正教に関心がある、キリスト教に興味がある、という方はぜひ実際に教会に足を運んでみてください。もし可能であるならば、それは私たちが祈祷を行っている時がなお良いでしょう。正教会の神髄は奉神礼(礼拝)を行っている時にこそあります。そこで何が起こっているのか、どのように祈りが行われているのか、ぜひ五感をもって確かめてください。本を読むだけの勉強では得られない体験がそこにはあるはずだからです。

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