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​不来方から

​不来方から

盛岡管轄区の教会報「不来方から」の一部の記事を抜粋して掲載します。

2月号

​巻頭

自ら高くする者は卑くせられ、自ら卑くする者は高くせられん

 これから私たちは大斎に先立ち「大斎準備週間」という時期を過ごします。準備週間の一週前の「ザクヘイ(ザアカイ)の主日」に始まり、その後「税吏及びファリセイ(パリサイ人)の主日」「蕩子(放蕩息子)の主日」「断肉(審判)の主日」と続き、ついに大斎直前の「乾酪の主日」に至ります。私たちはこの時期に何を意識し、斎についてどのように備えればよいのでしょうか。

 これらの主日にはそれぞれ印象的な福音書の箇所が読まれます。ザクヘイはユダヤ人から嫌われていた徴税人でしたが、イイスス(イエス)と出会い彼の人生は転換しました(ルカ19:1-10)。翌週には、神の前で「私はあの税吏のような罪人でないことを感謝します」と祈ったファリセイと「神よ、我罪人を憐れみ給え」と嘆願するしかなかった徴税人の対比がイイススのたとえによってなされます(ルカ18:10-14)。また父の財産を下らないことに全部費やしてしまった息子がついに父の家に帰って来た時に、父は彼を喜んで迎え入れ、対照的に兄は、弟が優しくされ、自分は顧みられないとふてくされるというたとえ話が読まれます(ルカ15:11-32)。

 

 これらの福音はいずれも「罪人が自らの罪を悔い、救いを求めるなら、神はいつでもその人を受け入れる」ということを示しています。そしてもう一方で、他者を見下し「罪人」と決めつける言動や思いを神は喜ばない、ということも同時に語られています。「人を裁いて決めつける」というのは残念ながら人間の性(さが)のようなものです。人の欠点をあげつらって「だからお前はダメなんだ」と言う時に、心の中にはどす黒い快感が潜んでいないでしょうか。ハリストスはこのような人間の性質について徹底して警告しました。「自分の目の中に丸太が入っているのに他人の目のおがくずを取ろうとする(マト7:4)」ことを神は好みません。


 断肉の主日の福音は審判についての記事ですが、ここでは「人間を大切にすることは神を大切にすることと同じであり、人間を蔑ろにすることは神を蔑ろにすることと同じである」ということが示されます(マタイ25:31-46)。人を裁き罪人として見下すことは、神の大切な被造物であり神の似姿である一人の人間に対しての敬意と愛情が欠落しているから起きることです。それはつまり神に対する敬意と愛情が欠落しているということでもあります。こんなに大きな罪が他にあるでしょうか。そしてその罪はやがて自らに向かって牙を剥きます。「あなたは自分の量る秤で量り返される(ルカ6:38)」からです。

 私たちは大斎に先立ってこのことをくれぐれも用心せねばなりません。斎をすると、斎をしていない人のことが気になり始めるからです。いくら肉や卵を40日以上我慢できたとしても、我慢できない人を心の中で裁き続けていたのであれば、それは「しない方がましだった斎」となってしまいます。さらにもっと恐ろしいことは、私たちは「人を裁く人を裁く人」にも容易になってしまう、ということです。


 私たちは斎に臨んで、まず他者に対する尊敬と愛情を確認しましょう。他人の欠点よりも自分の罪を省みましょう。それは本当に難しい課題です。この課題に真面目に取り組もうとすればするほど、自分にはそれが到底達成できないことに気が付きます。自分の愛の無さ、人を裁く醜い姿、それに気づいた時に初めて、心の底から「神よ、我罪人を憐れみ給え」という声にもならない呻きが絞り出されます。そのような罪人の姿を神が憐れまないはずがありません。そしてその時に初めて、私たちは「本当の斎」に一歩近づくことができるのです。

エッセイ
​アナタハ神ヲ信ジマスカ?

 子供の頃、芸人が付け鼻と金髪のかつらを付けて「アナタハ神ヲ信ジマスカ~?」と外国人牧師の真似をするコントが嫌いでした。キリスト教をバカにされているような気がしたからです。最近はそんなコントもあまり見なくなりましたが(人種差別的な問題も大きい気がします)、改めて考えてみると、これの何とも言えない嫌な感じは、キリスト教がバカにされているからだけではなかったような気がします。私にとって「あなたは神を信じますか?」という問いそのものが居心地の悪くなる質問だったのです。

 「あなたは神を信じるか?」と突然問われて「はい、信じています」と即答できる人が、クリスチャンの中でさえどれだけいるでしょう。(もちろん、洗礼の時に私たちは信仰を告白しているはずですが)。真面目で律儀な人ほど(そして日本人にはそういう人が多いのです)「あれ、私は本当に神を信じているのだろうか」「そもそも神を信じるとは何なのだろうか」「自分は神を信じると口先で言っているだけじゃないだろうか」と思考の袋小路に落ち込んで行ってしまいます。「教会に来ることは嫌いじゃないけど、これからも教会とは良いお付き合いをしていきたいけども…あれ?何で自分は教会に来ているんだろう、『神を信じて』いるのだろうか?」と、そこで明快な答えに詰まってしまう「真面目な人」に「アナタハ神ヲ信ジマスカ?」と問いをぶつけることはいささか乱暴です。だから私はこのセリフが好きになれないのです、多分。そもそも胸を張って「私は神を信じている、私には信仰がある」とキリスト者が自信満々に言えるものでしょうか?「自分の信仰なんて誰よりも小さい」「自分が本当に神を信じているのかさえ分からない」。むしろこちらの方が、主イイススが憐れまれた罪人たちの姿に近いのではないか、とさえ思います。

 だから私たちの問いは「あなたは神を信じますか」よりもむしろ「あなたは神を信じると言えるようになりたいですか?」「神を信じるということが分かりたいですか?」ではないでしょうか。こちらの方がいくぶん優しい質問です。信仰を持つよりも希望を持つ方がまだ容易だからです。信じる心もまた神からの賜物です。神から与えられなければ「信仰心」も持てないのが私たち人間なのですから、「信仰に自信が持てない」「信仰が分からない」のは当たり前なのです。しかし「不信仰な私、信仰の弱い私に信じる心を与えて下さい」と切実に祈る者の声を、神は決して見過ごさないはずです。「求めなさい、そうすれば与えられるだろう(マトフェイ7:7)」です。これこそが、私たちにとって最も等身大で飾らない祈りなのではないか、と信仰の弱い私などは思うのです。(神父が「信仰が弱い」などと言うな、とお叱りを受けそうですが…)
 

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