​不来方から

​不来方から

盛岡管轄区の教会報「不来方から」の一部の記事を抜粋して掲載します。

8月号
​巻頭
「蓋我等はすなわちその威光を親しく見たる者として然せり」

 8月19日、私たちは主の顕栄祭(変容祭)をお祝いします。主はペトル、イヤコフ、イオアンの3人の弟子と共に山に登り、そこで光り輝く姿に変容しました。イイススの両脇には古代の預言者であるモイセイとイリヤが現れ、主と言葉を交わしていました。弟子たちは茫然自失となり、彼らが我に返った時には、イイススはいつもの姿で弟子たちの前に立っておられました。

 神はしばしば「光」のモチーフで語られます。光とは闇を照らし、全てを明らかにするものです。光の無いところで私たちは何も見ることができません。字を読むこともできず、目の前に存在するものが何なのかも、自分が上下左右どちらを向いているのかも分からないでしょう。しかし逆にあまりに明るい光の中でも私たちは何も見ることができません。目がくらんでしまって、私たちの「見る能力」を超えてしまうのです。私たちにとってあまりにまばゆい光である神の真理を、私たちは「見る」こと、すなわち理解することはできません。それは人間の能力の限界をはるかに超えてしまっているからです。

 そんな私たち人間にとってハリストスは「見える光」です。私たちと同じ「人間の本性」をご自身のものとし、まばゆい「神の光」を覆い隠しておられます。私たちは夕方の祈祷「晩課」で必ずエルサレムの主教ソフロニイの祝文を祈ります。ソフロニイはその祈りの中でハリストスを「穏やかなる光」と讃美します。時はまさに夕暮れ時、日中はまぶしい光を放射しその形を見ることのできない太陽が、地平線に沈む直前、真っ赤で真ん丸な姿を表すように、子なる神ハリストスも人間としてこの世に生まれたことにより、私たちに見ることのできる神の姿を示すのです。

 しかし完全な人間となったハリストスは、一方で神の本性をひとかけらも失っていません。人間となってなお、完全な神であるお方です。変容の出来事とは、「穏やかな光」であるハリストスが弟子たちに自らの「見ることのできないほどまばゆい光」、すなわち神性を啓示された出来事でした。あまりに明るい光の中で、弟子たちは何一つ理解できなかったかもしれませんが、しかしその光への畏れ、驚き、喜び、あらゆる感情や感覚、理解を越えた体験をしたはずです。強烈な光に照らされた者は、その人自身も残照を放ちます。ハリストスは人々に「あなた方は世の光である(マトフェイ5:14)」と語りかけました。私たちが洗礼を受け、ご聖体をいただくということは、このまばゆい聖なる光に照らされるということに他ならないのです。だから私たち一人一人は、神のこの見ることもできないほどまぶしい光に照らされ、その残照が光るものだという自覚を持たねばなりません。この顕栄祭の機会に、私たちは改めて弟子たちの浴びた神のまばゆい光について思い起し、それが私たちにも照らされていることを記憶しましょう。

エッセイ
​「ポンペイ展にて」

 先日、宮城県美術館で開催されている「ポンペイ展」を見に行きました。ポンペイとは古代ローマ時代のイタリア半島の中部、現在のナポリの近くに存在した都市でしたが、紀元79年のヴェズヴィオス火山の噴火により一夜にして滅びました。火山から噴出した大量の灰や軽石は町を覆いつくし、18世紀頃に発掘が本格的に始まるまで、1700年以上地中に埋もれていました。一瞬で地に埋もれたので、紀元1世紀のローマ人たちの生活が丸ごとそのまま保存されており、一種のタイムカプセルのように、現代人はつぶさにその生活を知ることができます。


 と、上に書いたようなことはどのような本やウェブサイトを見ても書いてあると思います。ポンペイは非常に人気のあるコンテンツなので、たくさんの書籍が発行されていますし、きれいなカラー写真を見ることも容易です。またテレビでもよく特集され、その時々の最新の発掘品や、考古学的見解を学ぶこともできます。私は古代史やローマ文明が好きで、そのあたりの事柄はよくチェックしているので、今回展示されていた発掘品も半分以上はすでに何らかの形で知っていました。ではポンペイ展に行っても知っているものばかりで何の意義もなく、つまらなかったのか?


 そんなことは全くありません。展示されている物品を見て、今までテレビや図版で知った知識の何倍もの感銘を受けることができました。テレビで何度も特集されてきた壁画も、目の前の本物の持つ鮮やかさを見るのは初めてでした。有名な炭化したパンも、目の前に転がっていればこそ、その大きさや膨らみ、人々の生活を感じることができます。「百聞は一見に如かず」という日本のことわざがありますが、まさにそれです。実際に見たからこそわかることがあります。


 またキリスト教に携わる者として感じる部分も多くありました。紀元79年というと、使徒たちから次世代に移り変わっていく過渡期、キリスト教の成長期です。彼らがどのような家に集まり、どのような食卓の上で、どのようなパンでパン割き(聖体礼儀)を行ったのか目に浮かぶようです。また壁画に描かれた人物画の画風とイコンの画風に共通する感じ、絵の人物が着ている服が、イコンの使徒たちの服装とそっくりなこと。初期キリスト教徒もきっとこのような格好をした人々だったのだろうと思えば、使徒たちとの距離感もぐっと近づくような気がします。何気なく飾られているデナリオン銀貨も、ハリストスが手に取り「ここには誰の肖像が刻まれている?」と聞いたであろう、まさに「あの」コインなのです。あるいは罪の女がこの銀貨を300枚貯めて最高級の香油を買い求め、ハリストスに注いだのです。


 今回改めて体験は座学にはるかに優るとつくづく実感しました。私たちの教会もまた体験に溢れています。本を読んだりインターネットで調べたりしても、得られる知識は実際に体験して得られることのほんの数パーセントに過ぎないでしょう。教会について、キリスト教について「知りたい」のならば教会に来て奉神礼に参加してみましょう。体験するたびに本当の「知識」を深めていくことができるのですから。