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​不来方から

​不来方から

盛岡管轄区の教会報「不来方から」の一部の記事を抜粋して掲載します。

6月号

​巻頭

「およその霊は聖神にて活かされ、
清浄を以ていよいよ上り聖三者の奧密に照らさる」

 私たちキリスト教徒は「至聖三者」すなわち三位一体の神を信じています。至聖三者とは「父と子と聖神」の三者である唯一の神ですが、「父」と「子」はともかく「聖神」とは何なのか、というのはいささか分かりにくいかもしれません。

 主の昇天から10日ののち、ユダヤ教の五旬祭に当たる日に使徒たちが集まって祈っていると、天から聖神が火の舌のような形で降り、彼らは突如異国の言葉で神について語り始めました。彼らを「酒に酔っているだけだ」と馬鹿にする者もいましたが、使徒たちが聖神によって特別な力を受けたことは明らかでした。


 この「聖神を受ける」ということは決して使徒たちだけに与えられた特別に希少な恩恵ではありません。私たち正教徒は洗礼を受けた直後に聖神の恵みの証として「聖膏」という香油を塗布されます。正教徒である私たちは皆、神・聖神を受け、その恵みの泉を自身の中に保っています。しかしそれは必ずしも使徒たちのように「外国の言葉を話す」という形だけで表れるわけではありません。

 この五旬祭の出来事は「外国の言葉を話した」という以上の意味で理解されなければなりません。地上においてハリストスとともにあった時、使徒たちがどのような人々であったか思い出してみましょう。そもそも彼らの大半は無学な人々でした。そして「誰よりも偉くなりたい」という気持ちを隠しもしない傲慢さも持っていました。何より主の受難において、尻尾を巻いて逃げ出してしまうような臆病者達でもありました。しかしそんな彼らが宣教の時代には、世界中に主の言葉を宣べ伝え、ユダヤやギリシャの知識人たちとの議論にもひるまず、そして、主のために命を捨てる勇気を持つ人物となったのです。この変化を五旬祭の祈祷文では「漁者を睿知者となし」と讃美します。一体何が彼らを変えたのか。それはこの「聖神を受ける」という出来事でした。

 人間との関わりにおいて考えるのならば、聖神とは人間を生かし、成長させ、完成に導く恵みを与えるお方です。私たちは様々な祭日の早課で歌います。「およその霊は聖神にて活かされ、清浄(きよき)を以ていよいよ上り聖三者の奧密に照らさる」。私たちは聖神の恵みにおいて清まり、「いよいよ上」っていくことができるのです。私たちが神の恵みに背を向け自己中心的に生きている限り、人間の本質的な成長はなく、神の栄光をあらわす者とはなりえません。しかしもし自分の無力さを自覚し謙遜に神の恵みを求めるのならば、人間は無限に神に似たものに成長し、神の栄光をあらわす存在となるでしょう。その恵みを与えるのが「神・聖神」というお方なのです。私たちは、私たちが洗礼の日に受けた「聖神の恵み」を忘れずに、神の似姿への成長を意識して生きなければなりません。聖神の恵みを受け続けるために私たちにできることは、教会に集い、ともに祈り、そしてご聖体を受けることです。聖神が人間に与える恵みは大変豊かで、私たちを神の栄光にふさわしいものへと変化させます。

「聖神のみのりは、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制である」(ガラティヤ5:22-23)

エッセイ
​泉

 先日所用で秋田方面に向かった時に、時間に余裕があったので八幡平のあたりをドライブしすることにしました。新緑の山中を走っていると、道路の脇に「金沢清水はこちら」という看板が。なんだろうとスマホで調べると、金沢清水とは岩手山の北のふもと、松川に注ぐ水源地で、その水を利用してマスの養殖なども行われている、とのこと。


 「少し寄り道してみようか」と車を停めて妻と二人で森の中に入っていきました。しばらく歩くと、そこには澄み切った水をたたえる泉があり、池の底からはこんこんと水が湧き出ていました。やわらかな日の光の中で、清らかな水があふれ出している光景は不思議と胸を打ち、何とも言えない穏やかな気持ちが広がるようでした。

 さて、私たちはしばしば聖書や祈りの言葉の中で「泉」という表現に接します。「サマリヤの女」のエピソードではイイススが「私の与える水を飲む者は、その水が泉となって永遠の命に至る水が湧き上がる(イオアン4:14)」と語りますし、司祭は大聖入の後「復活の泉たる爾の墓は」と唱えています。また私たちは領聖するときに「ハリストスの聖体を領け、不死の泉を飲めよ」と歌います。

 私は今までこんなにきれいな泉を見たことがありませんでした。なので、これらの言葉もなんとなくのイメージでしか捉えられていなかったのです。しかし本物の美しく湧き上がる「泉」を見て、心の中で突如、この「泉」という言葉の意味が分かった気がしました。


 私たちキリスト教徒は皆自らの中にこんなに美しい泉を持っています。神の与える聖神の恵みが泉に例えられることの意味は、この「泉」の持つ清らかさや豊かさにあったのです。


 洗礼を受けご聖体をいただくことで、私たちは神からの水脈を得て、清らかな水が自身の中に永遠に湧き出すようになります。泉の水は森を養い、魚を育て、人を生かします。私たちの内から湧き出る聖神の恵みも私たちを生かし、そして自分だけではなく、世界を清々しい水で満たし、人々をも生かす働きがあるのです。

 ですから私たち一人一人も自らの泉がゴミで塞がらないように、湧き出した水が汚れてしまわないように気を付けなければなりません。きれいな水が人々に恵みをもたらすのとは反対に、汚れた水は毒となって生命を削っていくからです。願わくは私たち自身のうちにある泉が、いつも聖神の恵みに満たされて、清らかな水を周りにあふれさせるようになりたいものですね。

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