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​不来方から

​不来方から

盛岡管轄区の教会報「不来方から」の一部の記事を抜粋して掲載します。

11月号

​巻頭

主の降誕を待ち望む

 11月28日から私たちは「聖フィリップの斎」という節制の期間に入ります。27日の聖使徒フィリップの記憶日の翌日から始まるこの斎は、聖フィリップが捕えられ致命する際に、40日間の断食を行ったことに由来すると言われています。やがてこの斎は降誕祭と関連付けられるようになり、その準備のための節制という性質を持つようになりました。復活大祭を前に大斎の期間を過ごすように、降誕祭を待ち望む期間として、私たちはこの聖フィリップの斎の時期を過ごします。

 この斎の時期には多くの旧約時代の預言者たちが記憶されます。彼等は長い人間の歴史の中で、救世主の到来を待ち望み、人々の目を神に向けて開かせるための役割を担った人々でした。人間は、アダムが神に背いて以来、神を忘れ、光を見失って暗闇の中を歩くような存在となってしまいました。旧約聖書には神の前に正しく生きた義人についての記事がある一方、神に背を向け、自らのみを頼みとし、あるいはあてにもならない偽の神を拝み、自ら滅びに向かって転落していく人々についての記事もまた多く記されています。そんな人々を正しく神の道に立ち返らせるために預言者たちは神から遣わされました。

 私たちも自分の姿を省みてみましょう。旧約時代の人々の堕落は、また同時に私たちの堕落でもあります。人間の最初の罪は神に背き、善悪の知識を得て、自ら神のようになろうとした傲慢さでした。私たちが神を忘れているのならば、何かを思う時、何かを行う時に、それがどんなに立派なことであったとしても、罪に陥る危険性をいつも孕んでいます。神を忘れる傲慢さは全ての罪の源です。私たちは神と共にいない限り、いつでも滅びる可能性のギリギリに立っている存在なのです。


 しかし私たちには希望があります。預言者たちが語り続けてきた希望、私たちの救世主が人となって、私たちの間に来てくれる、という希望です。その方がいらっしゃった時、私たちは「エンマヌイル!」すなわち「神は我等と共にす!」と喜びの声を挙げることができるのです。もはや私たちは目標を見失って暗闇の中をさまよい歩く必要はありません。私たちと共にいて下さる神と共に、神の姿を目標として歩けばいいのですから。

 主の降誕を待ち望む、ということは、旧約の預言者たちが、そして人々が救世主を待ち望んだ気持ちを自分自身のものにするということです。この斎を通じて、私たちは自らを見つめ、自分の弱さ、罪深さ、神からの遠さを学びます。そしてそれと同時に、神がいつも自分と共にいて下さる、ということへの希望を持ち続けるのです。11月に入れば街はあっという間に「クリスマスモード」になります。私たちもまた、それとは一味違う、救世主への希望を温め、待ち望む、本当の意味での「クリスマスモード」でこの時期を過ごしてみませんか?
 

​※降誕祭は1月7日に行われました。

エッセイ
​我が霊よ、主をほめあげよ!

 この10月から盛岡教会と北岩手、秋田を管轄することになった、司祭のピーメン松島と申します。どうぞよろしくお願いします。

 さて、教会報「不来方から」の発行も引き継いだわけですが、先月号の巻頭で、ダヴィド水口神父様が「我目を挙げて山を望む、我が助けは彼処より来たらん。我が助けは天地を作りし主より来たる」という聖詠の言葉に、夏の岩手山の写真を添えた記事を書いておられました。私にとっても、この地で最初に強い印象を受けたのは、この雄大な岩手山の姿です。ですから私はダヴィド神父様に、この言葉でお返しを送りたいと思います。「願わくは主は己の造りし者の為に楽しまん、彼地を見れば地震い、山に触れば煙立つ」(103聖詠・104詩編)。

 私たちは毎朝岩手山を望み、妻とふたりでその姿に感動のため息をついています。山腹からモクモクと白雲が立ちあがっている姿は、まさに「山に触れば煙立つ」だなぁ、と思わずにはいられません。なぜ人は山の姿に感動を覚えるのでしょうか。それは多分、山の大きさ、美しさが神の創造の業の偉大さを目に見える形で体現しているからなのです。人間がどんなに岩や土をかき集めて積み上げても、こんなにも雄大な山を作ることはできません。豊かな自然に驚嘆するということは、神の力の偉大さを素直に受け取り喜ぶことに通じています。103聖詠は、神の創造の業の力強さや豊かさを、自然の営みを写生するように美しく描くことで讃美しています。普段何気なく晩課で歌っている聖詠ですが、その喜びは確かにこの地にある、と実感せざるを得ません。

 一方で「冬の寒さと雪」という、神の創り出したもう一つの創造の賜物の方には今から戦々恐々としているわけでありますけれども…
 

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