​不来方から

​不来方から

盛岡管轄区の教会報「不来方から」の一部の記事を抜粋して掲載します。

1月号

​巻頭

「今、水の性は聖にせられ、イオルダンは分れ、
主宰が洗を受くるを見て、その水の流を停む」

 かつて古代ギリシャの哲学者タレスは万物の根源は水であると言いました。もちろんこれがキリスト教の考える世界の真実ではありませんが、しかしこの世界について考えるときに「水」というものの存在は決して無視することはできません。私たちの住む地球の表面積の7割は海におおわれ、私たちの体も6割程度が水分です。あらゆる動物や植物にとって、水を取り入れることは生命維持の最も重要な課題です。世界中のあらゆるものが水に満たされている、と言っても過言ではないでしょう。水とは私たちを生かす最重要物質です。

 また水の無視できない特性は「洗う」という性質を持つことです。泥や油、ほこりなどが付いたものに水をかけ、丸洗いしたり丁寧に拭き取ったりすると、やがて汚れは消えます。どんなに汚れていても、水がその汚れを洗い流していってくれます。


さらにもうひとつ、水には大きな力があります。それは命を奪う力です。命を生かす水は同時に命を破壊する力でもあります。水の恐ろしさについて、ここで改めて述べる必要はないでしょう。

 私たちが洗礼に水を用いるとき、そこにはこのすべてのイメージが投影されています。洗礼を受ける人の「古き人」「罪に歪んだ人間性」は水に沈められることにより殺され、水によってすべての汚れが洗い清められ、そして新しい生命が与えられます。水は洗礼においてその特質をすべて発揮します。

 ハリストスがヨルダン川で洗礼を受けられたとき、ハリストスは決してそれを必要としていませんでした。なぜならば神そのものである方は、罪と無縁なので洗われる必要はまったくないからです。それでもハリストスが洗礼をお受けになったのは、水を清め、水に満たされた世界を清め、水に生かされる私たちを清めるためでした。ハリストスは水によって清められるのではなく、逆に世界中の水を清めるため、さらに言えば、水の持つ本当の力を取り戻すために洗礼をお受けになったのです。

 ハリストスが洗礼を受けたからこそ、私たちは洗礼を受け、清められ、生まれ変わることができます。ハリストスが洗礼を受けたからこそ、私たちは聖水を振りまき、それを飲み、その水によって神の恵みを願うことができます。今月私たちは主の洗礼を記念する神現祭を迎えます。この祭の祝いの中で、私たちは神みずからによって清められた水を、そしてその清められた水に満たされた世界を知ることができます。それをともに祝いましょう。そして神が世界を祝福し、善きものとしてくださっていることに大いに感謝し、喜び楽しみたいものです。

エッセイ
​「もっと柔らかく」

 少し古いアニメですが私のとても好きな作品があります。「ARIA」という、少し未来、人間が移住し水の惑星となった火星が舞台のアニメです。主人公は、ヴェネツィアそっくりに作られた火星の街で一流のゴンドラ漕ぎを目指す灯里という少女なのですが、そこで様々な人々と出会い成長していきます。その中のエピソードのひとつで大変印象に残っているものがあります。

 灯里が渡し船のアルバイトに行くと、そこにはゴンドラ漕ぎの昇級試験を目指しているほかの少女たちがいました。杏という少女は昇級試験に落ちたばかりで気落ちしており、もう一人のアトラという少女がそれを慰めます。アトラは言います。「私たちが試験に合格できないのは試験官が厳しすぎるから。私たちのやることを全否定してくる。試験官が変われば私たちも合格できるはず。だから大丈夫」。実はアトラもかつて昇級試験に落ちていました。しかしそれ以来彼女は試験を受けることから逃げてしまっており、今はアルバイトに明け暮れています。一方杏は、何度試験に落ちても再チャレンジしており、そしてそのたびに試験に落ちています。杏は言います。「試験に落ちると、ゴンドラ漕ぎとしての自分が否定されたような気がして悲しくて、怖くてガチガチに固くなってしまう。だけどそれじゃダメなんだ。柔らかくなければ何も吸収できない。足りないものがあるなら足せばいい。だから私はもっと柔らかくなりたい。柔らかくなってなんでも吸収して、いつか一人前のゴンドラ漕ぎになってみせる」

 柔らかくなる。それは私たちキリスト者にとってもとても重要な心の状態です。私たちが善きキリスト者になりたい、罪から離れて生きたいと思うと、しばしばつらい試練が襲い掛かってきます。そんなこと最初から目指さなければよかったのに、目指していなければこんなに苦しいことはないのに、というようなことです。自分の弱さ、罪深さをまざまざと見せつけられ、ただただ情けなく、打ちのめされます。偉大な聖人たちでさえそうで、彼らの書き残したものの中にはこのような葛藤が切々と綴られているものも少なくありません。


そのようなときに、自分は間違っていない、周りが悪いんだと頑なな心になってしまったら、その人はその後一切成長することはありません。しかし逆にそれを、自分の高慢な心が砕かれもっと柔らかくなれるチャンスなんだと思えれば、その人は一歩ずつ確実に善き者となっていくことができるでしょう。柔らかい心には神の善き恩寵が豊かにしみ込んでいくからです。

杏の言葉に心を動かされたアトラは「今の私でもまだ間に合うだろうか」と問いかけます。二人のやり取りを聞いていた灯里のセリフでこのエピソードは幕を閉じます。


「いつでも、どこでも、何度でも、チャレンジしたいと思った時が真っ白なスタートです。自分で自分をおしまいにしない限り、きっと本当に遅いことなんてないんです」