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​不来方から

​不来方から

盛岡管轄区の教会報「不来方から」の一部の記事を抜粋して掲載します。

4月号
​巻頭
「我昨日爾とともに葬られ、今日爾復活せし者とともに起く」

 4月20日、私たちはいよいよ復活祭の祝いの日を迎えます。「主の復活」という出来事は私たちキリスト者にとって、その信仰のまさに中心の核となる事柄です。金曜日、十字架で殺されたイイススの遺体は最低限の処置をして新しい墓に安置され、墓の入り口は大きな岩で塞がれました。そして日曜日の夜明け前に主の女弟子たちは本格的な葬りの支度を行うために香油(一種の薬品)の入った壺を持ちイイススの墓に急ぎました。しかし女たちがそこで見たのは衝撃的な光景でした。石はどかされ墓は光り輝き、「あなたたちはどうして生きている人を死者のうちに探しているのだ。イイススは復活した」と天使が女たちに告げました。女たちは急ぎ町に帰りそのことを他の弟子たちに話しましたが彼らはそれをすぐには信じませんでした。その後家に閉じこもって集まっていた弟子たちの前に復活したイイススが現れ、彼らに自分自身の甦りを示しました。あるいは旅をしていた二人の弟子と同行することになった謎の旅人が実は復活したイイススでした。弟子たちはそのことに最初気付きませんでしたが、旅人が夕餉の席でパンを手で割いた瞬間に彼らは目の前の人物がイイススであると気付きました。


 このように「イイススの復活」は、主の刑死後に様々な人に生きたハリストスが現れることによって示されました。死んで確かに葬ったはずの人間が、生きて目の前にいるという衝撃が人々を揺さぶりました。この人は神の子であり、主であるとついに確信するに至りました(主の死の時まで、12人の弟子たちでさえ、そのことを完全に理解していなかった節があります)。この喜びと驚きが今日まで至るハリストスの教会を作り上げた原点であると言っても良いでしょう。死から甦ったこの人こそ神ご自身であると使徒たちは今度こそ迷いなく信じることができたのです。


 ですから復活祭の喜びはこの主の復活を祝うものです。しかしその喜びは「主の復活だけ」の喜びではありません。かつてイイススは言いました。「わたしは天から下ってきた生きたパンである。それを食べる者は、いつまでも生きるであろう(イオアン6:51)」「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者には、永遠の命があり、わたしはその人を終りの日によみがえらせるであろう(同6:54)」「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者はわたしにおり、わたしもまたその人におる。(同6:56)」。主の体血を領けるもの、すなわちハリストスの教会に属し聖体をいただく者は、常に主とともにおり、永遠の生命に与ることができるのです。主の復活はそのことの何よりも明らかな証明でした。復活によって、ご自身が生命そのものである神だと証されました。だからこそ私たちは先ほどの「イイススは生きたパンである」というイイススの話を受け止めることができます。主の復活は私たちの復活の生命にも繋がっているのです。復活祭の早課のカノンで私たちは歌います。「我昨日爾とともに葬られ、今日爾復活せし者とともに起く」。神の子イイススは、死すべき私たち人間と同じように死んでくださいました。そして今度は私たちがイイススと同じように復活するようになったのです。主イイスス自らがその道を開いてくださったからです。ハリストスが私たち人間と同じ道を歩いてくださり、今度は主ご自身の歩む道を人間にも歩ませてくださいます。この喜びが復活祭の喜びであり、キリスト者の信仰と希望の核心となる事柄です。


 主の復活によって、もはや死は消滅でも恐怖でもなくなりました。「死よ、お前の棘はどこにあるのか(金口イオアン復活祭の説教)」。墓は光り輝く場所となり、死の暗闇の先には永遠の生命の輝きが見えています。「光は闇の中に輝いている。そして闇はこれに勝たなかった(イオアン1:5)」
 ハリストス復活!

​エッセイ
​「神さまと仲直りする~フォレスト・ガンプより~」

 一昔前にアカデミー作品賞を獲得した「フォレスト・ガンプ一期一会」という映画があります。アメリカ南部出身のフォレスト・ガンプという主人公の人生を描いた名作です。


 フォレスト・ガンプは青年時代にベトナム戦争に従軍しますが、そこで所属した部隊の隊長がダン中尉という人物でした。ある日ガンプの所属する小隊はジャングルの中でゲリラの待ち伏せに遭い壊滅的状況に陥ります。ダン隊長は部下たちに逃げるよう命令しますが、すでに皆負傷し動くことができません。ひとり無傷だったガンプは戦友たちを担ぎ上げ、次々とジャングルの外に運び出します。最後に残ったのがダン隊長でした。彼は「ここで死ぬ」と言い張りますが、ガンプはダンを担いで戦場から離脱させます。しかしダン隊長はこの時の怪我がもとで両足を切断することになってしまいました。


 両足を失ったダン隊長のそれからの人生は惨めなものでした。荒んだ心でどん底の生活をするダン隊長は訪ねてきたガンプに「お前のせいだ」となじります。ダン隊長はある牧師が「あなたはキリストに会いましたか?」と尋ねてきたことを語ります。「『あなたが神と出会い神を受け入れるなら、あなたは神の国を歩くことになるでしょう』あいつは『歩く』と言いやがった!クソくらえだ!」。両足を喪失したダン隊長にとって「歩く」は禁句でした。ダン隊長の心は、神を受け入れて生きるにはあまりに深く傷ついていました。


 それから色々あって(この「色々」が面白いのですが)ガンプはエビ漁船のオーナーになります。しかしエビはさっぱり獲れません。そこにダン隊長が訪ねてきて、一緒に船に乗ることになります。ダン隊長はマストのてっぺんに自分を縛り付け、見張り役をすることになります。相変わらず漁獲の無い日々が続くガンプの船ですが、ある夜猛烈なハリケーンに見舞われます。ダン隊長は荒れに荒れ、マストの上から嵐に向かって「俺はこんなことでは沈まない!」「もっと強く吹きやがれ」と悪態をつきまくります。翌朝嵐が去った凪の海面に朝日が昇り、ダン隊長は憑き物が落ちたように穏やかな顔で、海に身を投じ軽々と泳ぎ回ります。そしてガンプに「命を助けてくれてありがとう」と告げます。ガンプは「何も言わなかったけどこの時、ダン隊長は神様と仲直りしたんだと思う」と心の声を呟きます。


 この映画で「神様と仲直りする」ということが「復活」のモチーフと重ねて描かれていることは明らかです。ダン隊長は木に掲げられ、吹きすさぶ嵐の中で、足を失った苦しみ、蔑み、あらゆる恨みを吹き飛ばしました。ダン隊長が再び人生を取り戻したことは、朝日の中で海面を泳ぐダン隊長の表情が雄弁に語っています。翌日からガンプの船は大漁続きになり、二人は瞬く間に大金持ちになりますが、それは単に「神と仲直りしたから成功した」というのとは違うように思います。これは不漁の翌朝、復活のハリストスと再び出会った弟子たちが、船に載せきらないほどの魚を得る聖書のエピソードと明らかに重ね合わさっています。かつて牧師の言った「キリストと出会う」が、嵐のマストの上で成され、穏やかに自分の人生をすべてを受け入れ、もう一度生き始めることができるようになったことがダン隊長の「復活」だったのです。


 さて、実はこれはこの映画で描かれる数々のエピソードのたった一つで、全体ではもっといろいろなお話があります。少々長いですが大変面白い映画ですので是非見てみたらいかがでしょうか。すでに見たことがある人も新しい発見があるかもしれませんよ。

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盛岡ハリストス正教会(司祭常駐)

019-663-1218

 

岩手県盛岡市高松1丁目2-14

1-2-14 Takamatsu, Morioka city, Iwate pref. 

morioka.orthodox@gmail.com

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​80-1 Magata, Odate city, Akita pref.

http://www.wp-honest.com/magata/

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​10-31-1 Tsuchibuchi-cho Tsuchibuchi, Tono city, Iwate pref.​​​

山田ハリストス正教会

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