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​不来方から

​不来方から

盛岡管轄区の教会報「不来方から」の一部の記事を抜粋して掲載します。

9月号
​巻頭
「イエッセイより華は出で、その根よりする杖は芽を出だせり」

 生神女マリヤはイオアキムとアンナという両親のもとに生まれたと正教会は伝えています。またイオアキムはダヴィド王の系譜に連なるユダ族の一員だったとも言われています。ここに「イエッセイの根」と呼ばれる一枚のイコンがあります。一本の大きな木が描かれ、真ん中にハリストスを抱いた生神女が置かれます。木の根元には横たわる老人がおり、木の枝葉には多くの旧約の預言者が描かれ、特に王冠を付けたダヴィド王の姿が強調されます。木の根元に横たわる老人はダヴィドの父イエッセイ、またもう一人はイスラエルの祖アウラアムです。ですからこのイコンで示されるのは、アウラアム、イエッセイから生じた木がどんどん大きくなり、ダヴィド王の幹から生神女マリヤが、そしてハリストスが生まれたということです。いわばこのイコンは絵で描かれた家系図であると言えるでしょう。


 しかしこの家系図は、必ずしもマリヤの家が王族に繋がる立派な家系なのだということを自慢するためのものではありません。むしろ生神女マリヤには父がいて、その先祖がいるという当たり前のことこそ重要です。私たち今を生きる人間も、家系図こそ無かったとしても、親にはその親が存在するし、その親の親にも親が存在することは明らかです。人間の家系に依らず、突然根無し草のようにポっと現れた人間はいないはずです。ですからこの「イエッセイの根」のイコンはマリヤが特別の家系に属すということと同時に、マリヤが「当たり前の人間」であったことも表しています。


 なぜそれが重要なのか。それはマリヤが普通の人間でないのであれば、その普通の人間でない母から生まれたイイススもまた普通の人間ではなくなってしまうからです。イイススが「普通の人間」であるということは極めて重要です。なぜならばイイススが救わなければならないのは特別に選ばれた人間ではなく、私たちのような「普通の人間」だからです。特別な先祖を持つわけでもない、特別に優れた性質を持つわけでもない、特別に聖なる者でもない、世界にありふれた「普通の人間」こそハリストスの救うべき相手です。ハリストスはその普通の人間たちと、その普通さを分かち合うことで、その普通の人々を救いに招きます。ハリストスの救いは高みから「与える」ものではなく、私たちと同じ高さで「分かち合う」ものです。私たち普通の人間が苦しいのなら、その苦しみを分かち合う。私たちと同じ食卓につき、ご自身の血と肉を分かち合う。この分かち合いのために主は普通の人間となったのであり、その主に普通の人間という性質を与えたのは、普通の人間である生神女マリヤに他なりません。


 生神女マリヤは「神の母」となるという、とてつもなく偉大な業をなした女性です。そのことにおいて、確かにマリヤは特別であり唯一無二の存在です。しかしだからと言って私たちから隔絶された存在だったわけではなく、私たちと同じように父母の元に生まれた普通の人間であるということが私たちを勇気付けます。普通の人間とはかくも偉大なものであったのか、と。

​エッセイ
​「自分の心を省みる」

 今年7月の参議院選の時期、にわかに「外国人差別」の問題が提起され、様々な人が様々な立場で意見を交わしていました。差別の問題は真剣に考えると意外と難しく、「差別は良くない」ということは誰もが知っていますが、いざ「何が差別か」と問うと、これはなかなか一筋縄ではいかない問題になります。そんな中、俳優の高知東生さんがSNSで投稿した言葉はなかなか意味深いものであるように感じました。以下引用します。

 「こっそり言うけど俺は『差別を許さない』と声高に叫ぶ人は少々苦手。そういう人は「自分は差別をしない賢い人間だ」と自分のことを思っているんだよな。人間って、誤解や偏見から簡単に差別なんかするぜ。全てに物知りの人もいないし。『うっかり差別してるかも?』位に思える人の方が俺は信頼できる。」

 「差別を許さないと声高に叫ぶ人」が自分の事を「差別しない賢い人間」と本当に認識しているかどうかはひとまず置いておいて、「人間は簡単に差別するものだ」「うっかり差別しているかもしれない」という自己認識は非常に重要な視点に思えたのです。


 高知さんのプロフィールを振り返れば、彼自身決して清廉潔白な人生を歩んできたわけではないことが伺えます。若い頃から薬物を使用し、今から10年ほど前には逮捕、起訴されています。おそらく自分自身の弱さや悪事に染まってきた身の上などを直視せざるを得ない状況に置かれてきたことでしょう。自分の弱さや罪深さを認めることは辛く、心を消耗することです。自分は自分が思ってきたほど立派でも優秀でもなく、弱く情けないものであるということを受け止めるのは相当に苦しく、目と耳を塞いで何も気づかなかった振りをして過ごす方がはるかに楽なことです。しかし自分の情けなさから逃げずに、それを受け入れたからこそ気付ける事柄もあるはずです。


 自分の心の中をしっかりと見つめた時、確かにそこには「人にレッテルを貼る気持ち」「人を蔑む気持ち」、すなわち「差別する心」が存在するかもしれません。いや、誰の心にも存在するのでしょう。人間は自分や自分の所属するコミュニティから見て異質なもの、理解しづらいものに対して拒否反応を示します。これはある意味本能的なもので、自然な反応とも言えるでしょう。誰の心にも異分子を警戒する心理的な機能が備わっていますが、それが暴走すると差別に繋がっていきます。もし自分の心の中にあるそのような側面に気付かず、あるいは本当は気付いているのに気付かないふりをして、誰かに「差別主義者」の烙印を押して非難、糾弾するのならば、その鈍感さ、欺瞞はより悲惨です。結局それは「異分子の拒絶、排斥」という同じ心の裏表であり、ここから反差別という名の差別にさえ繋がりかねません。そしてそれは差別問題に限らず、あらゆる「正しい」事柄に於いて起こりうることです。


 ハリストスは石で罪人を撃ち殺そうとする人々に、「まず自分に罪が無いと思う人から石を投げればいい」と語りました。この問いかけは常に私たちの心の中に無ければならないものです。「差別しない側の人間として差別と戦う」、それは勇ましく格好よい姿に見えるでしょう。しかし「うっかり差別してしまうかもしれない側の弱い人間として、常に自分を省みて、誰かにレッテルを貼ったり蔑んだりしないように注意深く生きる」姿の方が、もしかしたらよほど尊く強いものなのかもしれません。

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019-663-1218

 

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1-2-14 Takamatsu, Morioka city, Iwate pref. 

morioka.orthodox@gmail.com

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​80-1 Magata, Odate city, Akita pref.

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山田ハリストス正教会

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​1-4-3 Otokoishi, Esashi, Oshu city, Iwate pref.​​​

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