​不来方から

​不来方から

盛岡管轄区の教会報「不来方から」の一部の記事を抜粋して掲載します。

5月号
​巻頭
「この選ばれたる日は唯一にしてスボタの王と君
祭の祭祝いの祝い」

 私たちはまもなくパスハ・復活祭を迎えます。言うまでもなく、この祭で記憶される「私たちの主であるイイスス・ハリストスが十字架上で殺され、その三日後に死から復活した」という出来事は、正教会のみならずキリスト教の信仰の中核でありスタート地点であると言っても過言ではないでしょう。イイススが復活したからこそ、今日に至るまでハリストスの福音が世界に宣べ伝えられているのです。

 しかし一方でこの「復活」こそ、多くの人のつまずきとなり、一番「信じがたい」出来事であることもまた事実です。「一度死んだ人間が生き返るなんてことがあるのだろうか」という疑問は、キリスト教に好感を持たない人のみならず、私たちキリスト者自身をもしばしば悩ませます。なぜこの疑問が大きな悩みを生むかと言えば、それは私たちの「知識」が「一度死んだ命は戻ってこない」ということを知っているからです。

 この疑問をすっきり解消しようと多くの人たちが色々な説を考え出しました。曰く、「イイススの死は仮死状態だったのではないか」、あるいは「実は十字架にかけられて死んだのは別人の替え玉であり、イイスス自身は生き延びたのではないか」。またキリスト者の中からさえも「復活とは文字通りの甦りを意味するのではなく、使徒たちの心に生前のイイススの言葉が強く思い出されその教えを広める決意が生まれたことだ」とか「何らかのイメージの伴う神秘的体験だった」などという説を唱える人たちがいます。ある牧師の「キリストの復活など信じなくてもいい」というエッセイを読んで愕然としたこともあります。


 正教会はこれらの「珍説」に対してはっきりと「ノー」と答えます。そんなごまかしや論のすり替えは無意味であり、イイスス・ハリストスというお方は間違いなくその身をもって復活したのだ、と。聖使徒フォマが指で傷に触れ、使徒たちと食事をしたイイススは本当に死から甦ったのだと信じるのです。

 私たちが復活を信じることができないのは、私たちが自分の知性の判断能力を高く見積もり、あらゆることが人間の知性で把握できると思っているからです。だから自分たちの知識や経験に合わない出来事を何とか自分の知性で「説明可能」な領域に押し込めようとします。正直に言えば、イイススの復活の「科学的」「論理的」な証拠を示すことはできません。どんなに理屈をこねても、そこに復活のイイススを見つけることはできないのです。

 では何によって私たちは復活を「知る」ことができるか。イイススの復活以来、その喜びと希望を聖なる伝統として繋いできた教会の中にこそ復活を知る鍵があります。パスハの祝祭はまさにその伝統の最も大きなものです。主の復活を歌い、「ハリストス復活」と呼び交わし、「はじめに言葉があった」という力強いメッセージを聞くときに、そしてともに復活祭の聖体を分かち合う時に大きな喜びの光が私たちを照らします。その光の中で私たちは理屈ではなく、主の復活を直に体験します。この震える喜びの中に私たちはイイススの復活の真実を見出すのです。

 「復活」は私たちの知性や経験を越えた出来事です。「復活」が分からない人は、自分の知性で無理に納得、証明をしなくてもいいのです。まずはただ復活祭の喜びを受け入れてみてください。その光の中に自分を投じてみてください。そうすればやがてこの喜びの一端をつかみ、そして復活が真実であると知れる日が来るでしょう。それはこの世のあらゆる喜びに勝るもっとも偉大な喜びです。

 どうか今年もよきパスハをすごせますように。
「ハリストス復活!」

エッセイ
​「花」

 昨年から少しずつ境内地に花壇を作っています。今まで園芸なんてやったことはなかったのですが、子供のころからスコップで庭に穴を掘るのは好きだったので、久々に童心に帰り境内地の土をほじくり返しています。

 昨年の秋にはスミレの苗とチューリップの球根を植えました。今がちょうど見ごろになっていますから、ぜひ教会に来てみてほしいなと思いつつ、私たちキリスト者は土いじりをしたり植物を育てたりすることから多くのことを学べるな、とも思いました。

 聖書にはたびたび植物が登場します。ブドウ、麦、いちじくなどの食べられる植物や、野の花がソロモン王の栄華にもまさる美しさであるというイイススの言葉、また農夫が種をまき、耕した土地でそれが大きく実ること、あるいは一粒の麦粒が地面に落ちなければ次の実は育たないことなど、実に多くの切り口で植物が用いられています。神が世界を造り育むことと、私たちが畑を耕し植物を育てることは時に似ているのかもしれません。

 さて、先ほど書いた、今が盛りのスミレの花についてです。秋に苗を買った時はもう冬も近づいていたのであまり元気がありませんでした。それでも花壇に植えれば少しは花を咲かせてくれましたが。しかしこの冬はご存じの通り大変厳しく、大雪が降り、あっという間にスミレの上に厚く覆いかぶさってしまいました。たまに雪から顔を出しても、もう花はしおれ、みすぼらしく縮んでしまって、「これはもうダメか」と思っていました。

 しかし春が来て雪が解け、暖かい日差しが降り注ぐようになったら、スミレはぐんぐんと葉を伸ばし、つぼみを付け、目いっぱいに花を咲かせています。死んだと思っていたけれど実は雪の下で生きていて、今や植えた秋の頃よりもずっと美しい姿で咲き誇っています。

 この姿を見て、「ああ、これは終末の時を生きる私たちと同じなんだ」と思いました。私たちの肉体はやがて死にます。誰もが死にます。それは冬が来てすべてを雪で覆い隠してしまうようにです。雪の下で花が死んだようになっているのと同じように、私たちも肉体の死によって滅んでしまうように見えます。しかしイイススが復活して以来、死者は復活の時を待つ者となりました。植物が雪の下で花咲く春を待つように、私たちは確かに生きています。そしてやがて主によって私たちはよみがえります。その時には、私たちは植えられたときには信じられないくらいに瑞々しく、美しく、大輪の花を咲かせることになるでしょう。前よりももっと素晴らしいものとして復活する希望、そんなことを庭の花に教えられたようでした。