​不来方から

​不来方から

盛岡管轄区の教会報「不来方から」の一部の記事を抜粋して掲載します。

10月号
​巻頭
「我が高ぶらざらん為に一つの棘は我が肉体に与えられたり」

 聖使徒パウェルは、キリスト教の黎明期において、もっとも大きな働きをなした使徒ということができるでしょう。彼は元々熱心なユダヤ教徒としてキリスト教徒を迫害し、滅ぼそうと奔走していました。しかしあるとき、パウェルは神みずから呼びかけられ、劇的な回心をします。それ以降、パウェルは打って変わって、もっとも熱心なハリストスの使徒として当時の地中海世界を駆け回るように宣教を行いました。また膨大な数の手紙を書いて、各地の教会に指導やアドバイスを行っていました。聖体礼儀においても、聖使徒経の朗読の中で、パウェルの手紙はしばしば扱われます。

 さて、今月の聖体礼儀ではパウェルの書簡の中から「コリンフ人に達する後書(コリントの信徒への第2の手紙)」が主に読まれます。その中でも第19主日に読まれる部分(11:31-12:9)では、パウェルがキリスト者として何を一番誇りとするかということが書かれています。それは「弱さ」だというのです。

 しかし聖使徒パウェルを知っている人からすると、およそ「弱さ」という言葉ほどパウェルに似つかわしくない言葉はありません。彼の福音に対する情熱は誰よりも強く、高い教養とギリシャ語の能力を武器として、初代教会を力強く指導し、他の使徒がハリストスの福音にそぐわない行動をとっていた時には、それがハリストスの第一の直弟子であったペトルであってさえも強く叱責しました(ガラティヤ2:11)。福音のために妥協無く、宣教の道を邁進していくパウェルの姿は、決して「弱い」とは思えないものです。

 とはいえそんなパウェルにも悩みの種はあったようで、彼はそれを「とげ」と表現しています(コリンフ後12:7)。その「とげ」が具体的に何を意味しているのかは分かっていませんが、一説では身体的な障害や持病があったのではないか、とも言われています。パウェル自身はその「とげ」が取り去られるように何度も神に願ったと手紙には記されています。パウェルがこの「とげ」に苦しめられており、自分自身の弱点として自覚していたことが手紙からは読み取れます。しかしパウェルは気付きます。この「とげ」が単なる悩みの種ではなく、神から与えられた一種のメッセージであると。


 パウェルはこの「とげ」に苦しめられるたびに、自分の弱さを思い知ることになったでしょう。神から直接啓示を受けた大使徒と目されていても、またペトルを真っ向から𠮟責できる強さと正しさを持っていても、小さな「とげ」ひとつ思い通りにすることはできないのだ、と痛感したはずです。パウェルにとってこれこそが神から与えられた最も大切な贈り物でした。他者から賞賛される「偉大な使徒」であるパウェルにとって、とげの発するチクリとした痛みは、思い上がりから謙遜へと引き戻す大切な感覚です。この痛みがあるからこそ、自分は増長せずに神の働きを行うことができるのだと、パウェルは神の思い計らいに感謝します。パウェルが誇る「弱さ」とはこのことでした。

 振り返って私たちはどうでしょうか。私たちにも悩みの種は尽きません。身体的なこと、経済的なこと、家族のこと、人間関係のこと、様々なとげが私たちをチクチクと刺してくるのがこの世の生活の常です。そのとげの一つ一つは嫌なことであり、自分の弱点となってしまう部分ではありますが、しかし弱点があることを知って謙遜に、慎重に生きることは、増長して傲慢にふんぞり返って、いつの間にか見えない罪の落とし穴に嵌る生き方よりはよほど良いことかもしれません。神は私たちの人生にしばしばこうした「とげ」を用意します。もし生活の中で「チクリ」と一刺しがあった時に、怒ったり嘆いたりするのではなく、「神が何かに気付かせてくれたのだな」と思えれば、パウェルが「弱さこそが誇り」と言ったことの意味が分かってくるのかもしれません。

エッセイ
​「神さまって大変」

 先日、事務所で仕事をしていたら会館のインターフォンが鳴り、玄関を開けるとお母さんと2人の子供が待っていました。「聖堂を見させてもらってもいいですか」とおっしゃるので、鍵を開け、堂内を見学してもらいました。しばらくしてお母さんはキリスト教について気になる疑問をいくつか投げかけてきました。それに答えながら会話を続け、やがて正教では人間についてどのように考えているのか、という話題に至りました。


 「人間には自由意志があって、そのせいで罪を犯してしまうこともあるけれど、自由意志は神様からの最も大きな贈り物だし、その自由な意志において人間が神の愛に応えてくれることを何より望んでいると考えますよ。全能の神は人間を思い通りにコントロールすることもできるけど、人間への愛ゆえにそういうことはしないんです」と、少々難解な話をしてしまったかな、と思った時、お母さんははっと気づいたように、「そうか、子育てと同じなのか!」とおっしゃいました。


 「子供は言うことを聞かないし、生意気なことも言うし、放っておくと危ないこともするけれど、だからと言って子どもを監視して無理やり親の言うとおりにコントロールするのは違いますもんね。子供のしたいようにやらせるけど、しっかり見守る愛なのか。そうか、神さまって大変ですね」

 今度は私が驚く番でした。神が人間を子育てしていると考えてみたことが無かったからです。もちろん普段から神を親と、人間を子となぞらえて説教やお話をしています。しかし子育てとは思いつきませんでした。私に子育ての経験がないせいかもしれません。しかし現に子供たちを育てているお母さんならば、神と人との関係をそんな風に捉えることができるのかと目からうろこでした。


 神は人間を我が子のように大切に思っていて、人間自身が自分の意志でのびのび生きることを望んでおり、人間が神に感謝して素直に喜びを表すときにはとても嬉しい。しかし人間はしばしば悪いことをしたり、怒ったり、神に歯向かったりする。危険なこともする。でも神はなるべく手出しをせず見守っており、自分で悪いことをした、危なかったと気付くまでじっと待っている。それはとてもじれったく、やきもきすることかもしれません。そのお母さんは自分の子育てと重ね合わせて、神さまの人間への愛を一瞬で捉えたかのようでした。そして「神さまって大変だ」というところに至ったわけです。神は全知全能であり、何も大変なことなどないと言うこともできますが、一方で愛する者をただ辛抱強く見守ることが大変でないわけないとも言えるかもしれません。神さまって大変、と思ったら、今度は神への感謝が素直に生まれます。「いつも見守ってくれていてありがとう」と。もしかしたら、この「ありがとう」こそ神さまが一番欲しい心であり、嬉しく思うものかもしれません。

 見学者の方の会話をきっかけに私も大切なことに気付いた時間でした。私も「神様も大変だな、いつもありがとう」といつも素直に感じて生きたいものです。