
不来方から
不来方から
盛岡管轄区の教会報「不来方から」の一部の記事を抜粋して掲載します。
8月号
巻頭
「我等罪なる者にも爾の永在の光は輝かん」
私たちは毎年8月19日に「主の変容祭」を祝います。この祭日ではイイススが弟子たちを連れて山に登り、そこで光り輝く神の栄光の姿を顕したことを記憶します。この日教会の伝統では、果実(元はブドウの実)に聖水を灌いで神の祝福を願います。これは作物の実りを祝い神に感謝する収穫祭の要素が変容祭に取り込まれているからだと見なすことができるでしょう。
しかし教会ではこの果実の成聖を、さらにもう一歩奥行きのある行事として捉えます。それは「果実」というものがそもそも「変容(形を変えること)」の結果であるという理解に基づいています。私たちが秋に果実を得るためには、春の初めに種を植えなければなりません。植物の種類によってまちまちではありますが、種とは基本的に小さな取るに足らない大きさの粒です。丁寧に耕された土地に播かれた種はやがて芽を出し、茎をのばし、ツルを這わせます。葉を茂らせ太陽の光を存分に吸収し、花を咲かせます。やがてその花が実を結び、多くの果実がたわわに実るでしょう。最初はほんの小さな粒から始まったのに、植物は次々と姿を変え、最後に豊かな収穫となります。この成長を私たちは「変容の姿」の象徴として捉えるのです。
そしてこの植物の姿は、ひいては私たち、私たちの信仰の成長を象徴するものとみなされます。主は弟子たちにしばしば畑の作物のたとえ話を語られました。曰く、私たちの信仰は「からし種」のようなものである。小さな粒がやがて大きな木になっていく(マトフェイ13章他)。豊かな土地に播かれた種は何十倍、何百倍もの実りを得る(同)。良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ(マトフェイ17章)。今や刈り入れの時であり、刈る者は永遠の生命に至る実を集めている(イオアン4章)。小さな種から始まった植物が、種から芽を生じ、芽から茎を出し、茎から葉を茂らせ、花を咲かせ実を結ぶように、私たちも小さなものとして始まりますが次々と成長し姿を変え、豊かな実りを得る可能性を秘めています。さらにもう一歩踏み込むのならば、一粒の種から始まった麦がパンとなり、ブドウがワインとなり、それが教会の機密において聖体、すなわち主の体血となる役割を担うように、私たち人間も変容に変容を重ねていったその先で、神の姿を地に示すものとさえなり得るのです。聖人たちとはそのような人々です。
そしてその変容は神の恵み無くしては実現しないものです。古代の人々は植物がどんどん姿を変え、花を咲かせ実を結ぶ様子に神の恩寵とエネルギーを感じ取りました。神が力を注ぐから植物は豊かな実りを得ることができるのです。だから私たちは収穫祭を祝います。神が植物の豊かな実りを祝福してくれたことに感謝するためです。私たち人間がより善いものになり、神の栄光を地に顕すことにも同様に神の恵みと力が不可欠です。ですから私たちが変容祭で果実に聖水を灌ぐとき、それは実は私たち自身の姿を果実の中に見ているのです。今年もよき実りを得られたことを神に感謝し、実りをもたらす神の偉大な力を讃美し、その変容の恵みが自分たちにも注がれるように願って果実は成聖されます。
主の変容を共に祝い、実りの祝福が豊かに注がれるようともに祈りましょう。
エッセイ
「通り抜ける」
先日テレビ朝日系列の「サンドウィッチマン&芦田愛菜の博士ちゃん」という番組で、女優の芦田愛菜さんがバルセロナの聖家族教会(サグラダファミリア)の建設現場を訪問し、主任彫刻家の外尾悦郎さんにインタビューするという企画が放送されていました。聖堂中央に建設される予定の大塔「イエスの塔」のプランについて芦田さんが尋ねると、外尾さんは「通り抜けるイメージ」を大切にしたいという趣旨の回答をされていました。曰く「イエスはすべてを通り抜ける。人の心もどんな条件も国民も人種も乗り越えてすり抜けちゃう」。
この回答を聞いたときにハッとしました。外尾さんがキリスト教徒なのかどうかは存じ上げませんが、イイススのひとつの大切な側面を掴んでいるのだなぁと思ったからです。復活したイイススが弟子たちに初めて姿を示した時、イイススは弟子たちが鍵をかけて閉じこもっている部屋に突然現れました。また旅をしている2人の弟子たちにイイススと気付かれないまま同行し、パンを割いたときにその誰であるかを悟らせ、そしてそのまま姿が見えなくなりました。復活のイイススはもはやこの世のいかなる制約にも捉われない自由自在な方として振舞います。物理的な障壁は意味をなさず、イイススを知る人にまるで知らない人のように現れ、そして突如ご自身が誰であるかを明かします。それを「通り抜ける方」というイメージで表現しようとする外尾さんの理解に深くうなずいてしまいました。
そして同時に私たちキリスト者はこの「通り抜けるイイスス」を自分のために閉じ込めようとしていやしないかとも思ったのです。歴史を振り返ればキリスト教徒同士で「自分たちの派が正しい」、言い換えれば「ハリストスはこちら側にいる」と主張し、血で血で洗うような抗争をしてきたこともあります。キリスト教徒でない人々を、キリスト教徒でないことを理由に虐げたこともあったでしょう。現代でもハリストスを信じると自称する人が、違う信仰の形を持つ人に軽蔑や嫌悪のまなざしを向けている姿を目にすることがあります。それらはすべて、本来自由自在に「通り抜ける方」であるイイススを、自分の欲望やプライドのために無理やり自分の元に独占し閉じ込めようとする傲慢な考えです。本当はイイススを閉じ込めるなんて出来ないのに。
私たちが福音を宣べ伝えるのは、自分たちの教えの正しさを押し付けるためではありません。自由自在にあらゆる人の心を通り抜け、あらゆる人の元に現れるイイススとの出会いを喜び、共有し、その喜びをより多くの人に知ってもらうためです。私も、あなたも、彼も彼女も、全ての人の心の壁を通り抜けて一つに繋ぐハリストスこそが私たちの喜びと希望です。その喜びと希望に本当の安らぎがあるからこそ私たちは人々を教会に招くのです。主がいつも私たちの間を「通り抜けて」あらゆる人々の元に訪れる方であること、そのことを忘れないでいたいものです。
バックナンバー
2024年9月号