​不来方から

​不来方から

盛岡管轄区の教会報「不来方から」の一部の記事を抜粋して掲載します。

6月号
​巻頭
「爾は光栄の中に天に昇り、
聖神を遣わすを約して、門徒を喜ばしめたり」

 主の受難と復活の出来事からしばらくの間、イイススは弟子たちと共に過ごしましたが、復活の40日目、主はエレオン山と呼ばれる山で使徒たちを離れ天へと昇っていきました。使徒たちは呆気にとられ空を見上げていました。昇天祭前日の晩課の祈祷文には、「涙を垂れ、哀しみに満たされて」と記されています。「私の主、私の神(イオアン20:28)」と確信した大切な方が自分たちを離れていってしまうということを、使徒たちはすぐには受け入れられなかったのです。

 さて、場面をだいぶ巻き戻します。主が受難のために逮捕される直前、イイススは弟子たちに言い含めるように大切な言葉を語りました。「わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に『助け主』を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう(イオアン14:16)」。ここで助け主と訳されている言葉は、日本正教会の翻訳では「撫恤者(なぐさむるもの)」と訳されています。これは原語のギリシャ語では「パラクレトス」と記されており、この言葉は擁護する者、支える者、慰める者など、幅広い意味を含んでいます。主はやがて人々の目から見えなくなってしまうけれども、この「パラクレトス」のおかげで使徒たちは主を「見る」ことができるとイイススは言います。さらに「パラクレトス」はそれを受ける者に真理を悟らせ、弱い心を強めてくれます。


 しかし使徒たちが初めにこの話を聞いたとき、彼らがイイススの言葉を本当に理解していたかどうかは分かりません。この言葉はイイススが私たちの目から「見えなく」なってしまったときに、初めてジワリと効いてくるものです。


 さて昇天の出来事からさらに10日後、使徒たちが集まって祈っていると、突然強い風が吹き、天から炎の舌のような形をしたものが使徒たちの頭上に降りました。使徒たちは突然異国の言葉で主の福音を語りだしました。イイススが約束していた「パラクレトス」がついに送られてきたのです。この出来事以降の使徒たちは、以前とは全く違う強さと信仰を持ち、主の福音の宣教のため全力で世界に駆け出す者となりました。彼らはもはや「イイススがいなくなってしまった」と寂しさを嘆かず、むしろ「イイススはいつも私たちと共にいる」という確信を持って力強く宣教を行いました。これこそ「パラクレトス」すなわち「神・聖神」が使徒たちにもたらした「慰め」「真理」「支え」だったのです。

 現代を生きる私たちにとっても、これは依然として同じ意味を持ちます。ハリストスが地上に生きた時代から2000年。「イイスス・ハリストス」は本の中の人物、過去の人物であり、私たちと直接出会うことのない方だ、と思うのはキリスト者にふさわしいことではありません。神・聖神の賜物を受け入れた分だけ、私たちはハリストスがともにいることを知ることができます。確かにそれは科学的、物理的な意味で「イイスス」という人物が目の前に存在するという意味ではありません。あるいは妄想や集団催眠的熱狂の産物でもありません。もっと静かで力強く、神秘的、機密的な意味においてイイススの臨在を知るのです。キリスト教の2000年の歴史を紡いできた数多くの聖人たちは、皆この確信を持っていました。目に見えなくてもイイススがともにいることを知っていたからこそ、偉大な業や、熱心な祈りの生活、死を恐れないほどの信仰を実現することができたのです。


 だから私たちも常に神・聖神の賜物を求め祈らなければなりません。私たちがそれを受け入れることができたとき、私たちは神ご自身によって慰められ、支えられ、守られていることに気付くでしょう。「聖神を受けること」、これはキリスト者にとって最も大切な人生の目標のひとつなのです。

エッセイ
​「ココロのスキマ」

 先日漫画家の藤子不二雄A氏が亡くなりました。忍者ハットリくんやプロゴルファー猿などの作品がありますが、何より有名なのは、大人向けブラックユーモア漫画の「笑ゥせぇるすまん」でしょう。どんなマンガだったかなと、久しぶりに読んでみましたが…。

 人生に何か不満がある、何か満たされない思いがある人物のもとに、セールスマン姿の喪黒福造は近づいてきます、ある時は偶然を装って、ある時は強引に。そして「お客様のココロのスキマを埋めて差し上げましょう」とあやしい道具や契約を勧めます。彼らは最初は訝しむも「お金はいりません。お客様の喜びだけが望みです」と言う喪黒に押し切られてしまいます。「お客様」が喪黒と契約すると、最初はすべてが上手くいくようになり、彼の不満や満ち足りなさは埋められたように感じます。しかし徐々にそれだけでは物足りなくなり、「お客様」の要求はエスカレートしていきます。そして一線を越えてしまったところで喪黒が登場し「ドーン!」。自らの欲望によって破滅してしまった「お客様」をニヤニヤ見つめながら「これが私の楽しみです」とほくそ笑む喪黒福造。だいたいこんなパターンのお話が多いです。怖いですね。

 さてこれは漫画の話ではありますが、私たちもまた自分たちの「ココロのスキマ」についてよく考える必要があります。人生には不満がつきものです。お金が足りない、異性にモテない、家族仲がしっくりしていない、嫌いなヤツがいる、もっと尊敬されたい。私たちは多かれ少なかれそのような不満を持ち、そこから心に隙間風が吹き込むような寒々しさを感じることもしばしばです。そして世の中にはこのココロのスキマを安易に埋めてくれる誘惑がたくさんあります。「お金が足りないならギャンブルで増やせばいいんだよ」「異性にモテたいならあそこのお店で遊べば楽しいよ」「嫌いなヤツはSNSで悪口を拡散してやれ」「お酒をたくさん飲めば辛いことも忘れられるよ」。どれも一時はココロのスキマが埋まるでしょう。しかし後から振り返れば虚しいばかりで、スキマはますます大きくなっていくばかりです。悪魔は人間のそんなココロのスキマをいつも狙っています。そこに付け込み、誘惑し、人が破滅するのを高笑いして見ているのが悪魔なのです。

 では私たちは「ココロのスキマ」をどのようにしたらいいのでしょうか。聖使徒パウェルは「私は足ることを学んだ(フィリピ4:11)」と言っています。またティモフェイへの手紙の中では「わたしたちは、何ひとつ持たないでこの世にきた。また、何ひとつ持たないでこの世を去って行く(6:7)」とも言っています。私たちが持っている物事も、持っていない物事も、みな神の計らいなのです。神は私たちに最善の道を備えており、今満たされないのもその道の途上に過ぎません。「ココロのスキマ」を感じたときも、それが今の私たちの成長のために与えられた神の課題なのかもしれません。私たちは神に「ココロのスキマ」の辛さを吐露しつつも、神を信頼し、神に委ねる生き方を学ばねばなりません。するとやがてスキマは神の慮りと愛で埋まっていることに気付くでしょう。そうなればもうココロのスキマから寒々しい風が吹き込んでくることはないのです。