
不来方から
不来方から
盛岡管轄区の教会報「不来方から」の一部の記事を抜粋して掲載します。
2月号
巻頭
「彼は爾の首を砕き、爾は彼の踝を刺さん」
大斎に入る直前、大斎準備週間の最後の日曜日は「乾酪の主日」と呼ばれます。大斎の節制に向けて乾酪類(チーズやバターなどの乳製品)を断つ日なのでそのように名付けられていますが、この日にはもう一つ大切なテーマがあります。それは「アダムの放逐」です。神によって造られた最初の人間であるアダムとエヴァが、エデンの園において神の言いつけに背き善悪の知識の実を食べ、そのために楽園を追われるという、あの出来事が記憶される日がこの「乾酪の主日」です。
アダムとエヴァは蛇にそそのかされ、自らが「神のよう(創世記3:5)になり」生きることを選びました。神は二人をエデンの外に追い出し、人間が土に還る(死ぬ)こと、男は苦しみの中で働き生きなければならないこと、女は子を生むときに苦痛を味わうことを定めました(3:16-19)。人間は自分たちの傲慢さのゆえに死と苦しみを自らに招いてしまったのです。その神の言葉通り、アダムとエヴァ、その子孫たちはこの世界で苦しく辛い一生を過ごし、最後には死んで土に還るという生き方を送ることになりました。私たちがこの世で苦しいのは、ある意味ではそれが当たり前のことなのだと聖書は教えているようです。
しかし神の言葉は私たち人間への罰や呪いである一方で、そこにはそれ以上の意味が込められています。神は人間に先立って、アダムとエヴァをそそのかした蛇を呪います(3:14-15)。蛇(悪魔)は女の子孫によってやがて頭を砕かれる、というのです。正教はこの言葉の中に、楽園を追い出されるまさにその時に、すでに私たちの救いが約束されているという予告を見出します。私たちの罪の原因となった悪はやがて滅ぼされる時が来る、という神の約束の中に救世主の到来を予感します。つまり楽園からの放逐は、神が人間を見棄て、勝手に野垂れ死ねばいいという人への愛の喪失なのではなく、人間が自らの罪を悔い改め救世主の到来を待ち望む反省の時として設定されていると理解されます。
大斎という40日間の旅の始まりにアダムの放逐が記憶されるということ、それはこれから過ごす大斎が救世主の到来すなわち主の復活を待ち望む痛悔の日々であることを示しています。人間が神に背を向け続ける楽園にふさわしくない存在であることを今一度思い出し、その痛みをしっかりと見つめ、その痛みの中から立ち現れる本心からの救世主への求めを神の前に表すのが大斎です。しかしその苦痛の日々は永遠に続くわけではありません。神は人がエデンを出るその日に、人の救いを定めました。苦しみと悔恨の中に光る小さく確かな希望を胸にこの大斎の日々を過ごし、やがて来たる大いなる過越し(パスハ)を待ち望もうではありませんか。
エッセイ
「雪の蔵、雹の蔵」
この記事を書いている今、日本列島が未曽有の寒波に襲われていますが、豪雪や酷い寒さに見舞われるたびに思い出す聖書の箇所があります。それは「あなたは雪の蔵に入ったことがあるか、雹の蔵を見たことがあるか」(イオフ38:22)という言葉です。大変な災難に次々と見舞われたイオフ(ヨブ)という男が、神に自分の潔白を申し立て、自分の身に懲らしめの罰が降りかかるのはおかしいと主張したことに対する神の答えの中に、上記の言葉が含まれています。
そもそもイオフは、確かに何も悪いことのない立派な人物でした。悪魔が神に「イオフが神に対して信仰深いのは、彼が裕福で何不自由ない暮らしをしているからであり、彼からそれを取り上げたらきっと信仰を失ってしまうだろう」と言ったことに対し、神はイオフの生命を取る以外のすべてを許し、悪魔にイオフを試みることを許容しました。それがイオフを襲った数々の災いだったのです。財産はすべて失われ、子供たちは死に、イオフ自身もひどい病気にかかりました。イオフの妻は彼の惨状を見て「もう神を呪って死ねばよい」と言い放ちましたが、彼は神への信仰を失いませんでした。一方でイオフの友人たちは彼を訪ね、こんなに酷い目に遭うということは、イオフは何か罪を犯していてその罰が下っているのだから、それを神に懺悔しろとアドバイスしました。しかしイオフは「私は神の前に何一つ罪になるようなことはしていない。犯していない罪の赦しを乞うことはできない」と拒絶します。
しかしそのやり取りを聞いていた青年が彼らに神の真理を告げます。イオフの友人たちに対しては、苦難を「神の罰」と決めつける思い上がりを責め、イオフに対しては自分の正しさを主張するばかりで、神の知恵や考えの奥深さを理解しないことを糾弾します。その後神みずからが言葉を発し、冒頭の言葉のような神の超越性と、人間の知性の限界の小ささが対比される展開となります。
イオフ書は「理不尽」なストーリーです。正しいものが報われ、悪しき者が罰せられる世界であれば難しいことはありません。正しい方が得なのですから皆正しくあろうとするでしょう。しかし現実はそうではなく、正しいものが苦難に遭い、悪い者がますます栄えることだってあり得ます。そのような中で「神を呪う」ことも「神の方が間違っている」と言いたくなることもあるかもしれませんが、それは浅はかであるとイオフ書は教えているのです。神の知恵は私たちが容易に理解できる「因果関係」に縛られるものではなく、むしろ私たちの知恵では「理不尽」にしか見えない形を取ることもあります。苦難に見舞われた時、安易に神の意図をでっち上げず(例えば、あなたが不幸なのは水子の霊が、先祖が悪いことを、あなたの悪事に、などなどの言説はみんなでっち上げです)、逆に自分は正しいのに神の方が間違っていると強情にもならず、「この苦難の意味は今の自分には分からないけれど、神がそれを許容しているということはきっと何か深い神の意志があるのだろう」と謙虚にそれを受け止め、そこから苦難に向き合うことを始めなければなりません。とにかく神の意図は私たち人間には計り切れるものなどではないという謙遜さを知る必要があるのです。
この箇所は復活祭の直前、受難週の大詰めの祈祷で朗読されます。大斎という「苦難」の時期を越え、いよいよ喜びの光が見えるという時期にこの箇所を読むことの意味、実に味わい深いものがあるんですよね。
バックナンバー
2024年9月号