不来方から
不来方から
盛岡管轄区の教会報「不来方から」の一部の記事を抜粋して掲載します。
1月号
巻頭
「主宰よ、今もみずから爾の聖神を以て此の水を聖にせよ」
紀元前6世紀のギリシャの哲学者タレスは「万物の根源は水である」と唱えました。当時のギリシャ哲学では「世界はどのように成り立っているか、世界を構成するもっとも基本的な要素とは何か」ということが重要なテーマとして扱われていました。ある人は空気、ある人は火、あるいは混沌、あるいは数。様々な説が飛び交いましたが、タレスは「水」という物質に注目したのです。全ての物質は水から生じ、水に還るとタレスは言いました。確かに私たちの体の6~7割は水分ですし、植物に水を与えればぐんぐん大きくなっていきます。古代の人々が水に特別な地位を与えたことは現代を生きる私たちにも理解できることです。キリスト教においては万物を無から創造したのはもちろん神ですが、しかしそれでも水は重要な創造物として表現されています。神が最初に作られた世界は形のないモヤモヤしたものでしたが、神は水を大空によって上と下に分かち、さらに水を一か所に集め海を作って陸地と区別し、世界は徐々に形のあるものになっていきました。キリスト教の世界観においても水は物質的世界を代表するものとして考えられていると言うことができるでしょう。
さて、前置きが長くなりましたが、1月に祝われる「神現祭」は「主の洗礼祭」とも呼ばれ、祈祷の中で「大聖水式」が行われます。大聖水式では旧約聖書から水や泉に関する箇所が読まれ、神を讃える祈祷文が唱えられ、最後に司祭が水盆に満たされた水に十字架を沈め、十字を描き神の祝福を祈ります。水は神の恩寵によって成聖され、それに触れるものを清め恵みを与えます。神の祝福はこの世のあらゆるものに注がれますが、とりわけ水のために聖水式が行われるのは、この「水」という物質が万物を代表する基本的な素材だからです。成聖された水を浴びたり飲んだりすることで、私たちは水を吸収します。聖堂や家に水を振りかけることによって、水は浸透していきます。大地にも空気にも水が溶け込み世界の果てまで拡散していきます。そして水は雲となり、雲から雨が降り再び世界中に水をもたらします。神の見えない祝福はもちろん物質を超越していますが、しかし水という物質に神の祝福を託すことによって、私たちの目は神の祝福が世界中を覆っていく有様を見ることができるようになります。
私たちは聖水式で成聖された聖水をその後一年間さまざまなことに用います。聖枝祭で用いる緑の枝、復活祭の玉子やパン、変容祭の果実などに聖水が振りかけられ、それを手に取ったり食べたりする私たちに神の祝福がもたらされます。あるいはイコンや聖器物に聖水をかけ、神の為にこれらの物品が正しく用いられるように祈ります。また新しい自動車や船にも聖水を振りまき、それに乗る人々が無事に守られるよう神に願います。あるいは私たちが死ぬとき、その棺は聖水によって成聖され、また埋葬式の最後に永眠者の罪が全て赦され神に受け入れられるよう聖水を灌いで祝文が唱えられます。
祈祷や行事の中でしばしば用いられる聖水。それが振りまかれる時に、神の祝福があらゆるものに染み込んでいく感覚を目で見て肌で感じてみてください。
エッセイ
「木綿のハンカチーフ」
今から50年ほど前、太田裕美さんの「木綿のハンカチーフ」という歌が流行ったそうです(私はまだ生まれていないので、伝聞情報で、悪しからず…)。田舎の故郷から都会へ恋人を見送った女の子と、その旅立っていった恋人との手紙のやり取りのような歌詞が特徴的な歌です。
都会で勤め人となって、田舎の故郷では想像もできなかったような刺激的な暮らしの中、男の子は都会のお洒落で華やかな贈り物を故郷の恋人に贈ると手紙に綴ります。しかし彼女の答えはいつも「いいえ」。彼女は都会のきらびやかさには全くあこがれを感じておらず、田舎の芝の上でともに過ごした素朴な恋人の姿こそが最も大切だと思っています。彼女が恋人である彼に願うことはただ「都会の絵の具に染まらないで帰って」きてほしいというただ一点のみです。どんな贈り物をもらっても、スーツに身を包んだ都会的で洗練された姿の写真を見せられても、彼が故郷に帰ってこないのならば彼女が喜ぶことはないのです。
さて、私たちが祈祷の中でしばしば唱える「第50聖詠」という祈りがあります。イスラエル王国のダヴィデ王がとんでもない大罪を犯してしまった時、それを悔いて神に立ち返ろうと嘆いた言葉がもとになっていると伝えられます。その中で「蓋爾は祭を欲せず(略)爾は燔祭を喜ばず」という語句があります。人が痛悔しないのであれば神はどんな捧げものも祭も喜びません。「罪」というと私たちは犯してしまった個々の悪事を思い浮かべますが、それは罪そのものというよりは「罪の結果」生じてしまった悪い果実です。罪の果実が生じる「根」は、むしろ人の心の中にある神からの離反、自己中心性です。私たちは神によって生かされ、全てが神から与えられた賜物であるという感謝と謙虚な気持ちを失うと、全てを自分の思い通りに、全ての物は自分の成果であると傲慢になります。そして調子に乗ったり、思い通りにいかなかったりしたときに悪事を行ってしまいます。私たちの罪の根本は神から離れていることそれ自体です。それはあたかも故郷を捨てて生きているようなものです。痛悔とはこの自分の居場所を反省し、あるべき所に帰ろうとする決意です。そこから帰ってこないのであれば、何をしても神の喜びにはならないのです。
「木綿のハンカチーフ」では、最後に彼は「もう故郷には帰れない」と恋人に告げてしまいます。彼女は彼に「涙拭く木綿のハンカチーフください」と最後のプレゼントを願います。これは歌だから美しく描かれますが、しかし私たちの人生においてはそうであってはならないのです。帰らないことで、故郷で待つ人を泣かせることは大きな罪です。都会の喧騒、すなわち日々追われるように、すり減らされるように生きる中で、故郷に帰ろう、神への感謝と讃美の心を取り戻そうと決意するのならば、それこそが神が喜ぶ一番の贈り物なのです。
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2024年9月号