
不来方から
不来方から
盛岡管轄区の教会報「不来方から」の一部の記事を抜粋して掲載します。
10月号
巻頭
「蓋律法の行いによりては、人一人も義とせらるるなし」
聖体礼儀では毎回、福音書の朗読の前に聖使徒経が読まれます。毎年この時期には聖使徒パウェルによるガラティヤ人への手紙が読まれますが、この手紙はパウェルが「律法とはいったい何なのか」ということをハリストスの福音を信じる者に教えるために書いたものです。
しばしばキリスト教の世界では「信仰か、行いか」という問いが立てられます。善い行いをしたものがその褒美として天国に入れられるのか、人間は善い行いなどすることができないので主を信じることだけが天国への道なのであるか、という問いです。これは実は、西ヨーロッパでカトリック教会に対してプロテスタント教会が強く問いかけたテーマでした。古くは5世紀のアウグスティヌスとペラギウスという人物の論争まで遡ることができる問いですが、ここではあまり詳しい話に立ち入るのはやめておきましょう。ともあれ、「天国に入ることができるのは、正しい行いをした人か、信仰を持つ人か」という問いです。
しかし実は正教会の立場からすると、その「どちらか」という問いそのものがあまり意味あるものとは言えないのです。
ハリストスの時代、「善き行い」「正しい行い」の代名詞とも言うべきものが、まさにユダヤ教の律法を遵守することでした。ユダヤ人の常識に照らして言えば、律法を守らないことは「悪い行い」であり、そのような行いの者は報いを受けるというのは当然でした。そのような中、当時の「熱心な」ユダヤ教徒たちは律法の細則を守ることだけに熱中し、そこにあるべき愛や謙遜さを忘れてしまいました。愛や謙遜さがない律法遵守は、実は律法を守っているとは言えません。その本質を失っているからです。聖使徒パウェルは律法の「呪い」を語り、それはなぜならば「誰もそれを守ることなどできない」からでした。誰も守ることができない規則があり、守ったように見えても本質が抜け落ち、そしてそれを守れないものは天国にふさわしくないというならば、律法はむしろ人を罪に定める呪いでしかないではないか、ということです。しかしこれを単に「だから律法(正しい行い)は無意味なものである」と短絡的に決めつけてしまうのであれば、それは片手落ちというべきです。
律法、すなわち「正しい行い」「善い行い」の規準があることにより、私たちはいかに自分が神の御心から遠いものであるかを知ることができます。それを知るからこそ私たちは自分が天国や永遠の生命、神にふさわしくないものであることを痛切に味わい、「神よ、我を憐れみ給え」と祈ることができるのです。「神の与えた条件を満たすことなど自分の力では到底できない。私にできることは神がこんな私を可哀そうに思って手を差し伸べてくれるのを待つだけである」。この思いは「行い」に真剣に取り組んだものにしか決して生まれ得ないものです。挫折は「行った」者にしか味わえません。そしてその惨めさや悲しさを知らなければ、「私を救うのは神だけである」という「信仰」も生まれ得ないのです。「信じる者は救われます」と言葉でいうのは簡単ですが、ではその「信じる」とは何かということの深さは「行い」によって掘り進めていくしかないのです。
「行いなき信仰は死んでおり、信仰なき行いは無価値である」という警句があります。私たちが教会でガラティヤ書の朗読を聞く時、改めて私たちの行いは信仰に繋がっているのか、信仰は行いによって強められているのか、そのことを自分自身に強く問いたいものです。
エッセイ
「ノズルヘッドライト付き掃除機」
クルマでラジオを聞いていると、しばしば通販番組が流れます。あの長崎なまりの社長が有名な(社長はもう出てこなくなってしまったけどね)通販会社の商品もよく紹介されています。ある日いつものようにその通販番組を聞いていると、販売スタッフのテンションの高い声が聞こえてきました。「この掃除機はですね!ヘッドの部分にライトが付いていまして!床の小さなゴミも見落とさないんですよ!」これを聞いて、それが正直どれほどのことなのかいな、と思いました。「掃除機の吸い口に明かりが付いているからといって何がありがたいのか分からん」と、フフンと笑って聞き流していました。後日、たまたま新しい掃除機を使う機会があったのですが、それにはこのノズルヘッド部分のライトが標準装備されていました。使ってみて驚きました。確かに床の小さな埃まで、光に照らされてくっきりと浮かび上がり、これを吸い取らなければならないとはっきりと分かるのです。こんな簡単なことなのに、なんていう効果だ!と以前の評価を180度覆さざるを得ませんでした。それほどにノズルヘッドのライトは効果抜群だったのです。
さて、ここで少し話題を変えて私たちの「痛悔」について考えてみましょう。痛悔とは私たちの生き方を掃除するようなものです。汚い部屋の、もう掃除を諦めた居心地の良さを捨て、きれいな部屋を取り戻します。まずは部屋を塞いでいる巨大なゴミを捨てなければなりませんが、これはいわば私たちの人生全体を神の方に向き直す根本的な痛悔です。自分本位の人生を神本位に変えること、大きな罪を離れ去ること。そのような痛悔はもしかすると人生にそう何回もあるものではないかもしれません。床に落ちているものを元の場所に戻したり、いらないものを処分したりするのは、日々の良くない習慣の見直しのようなものかもしれません。これをきちんとやるかやらないかで、その後の部屋のきれいさの維持が変わってきます。さらに床に掃除機をかけて、埃を取ります。これは自分の心の中にしばしば起こる、よくない傾向や思いを拭きとるようなものです。
ここまでやれば、まあまあ部屋もきれいに見えてくることでしょう。これで十分に思えるかもしれません。しかしここでノズルヘッドのライトを付けてみると…。まだまだ埃がたくさん落ちていることに気付くでしょう。私たちにとってこの光は、神の恩寵の光です。神に祈り、神が光を当ててくれることで、今まで気づかなかった汚れや埃、すなわち小さな罪への傾向が見えてくるのです。正教会の偉大な長老たちは「神に近づけば近づくほど、かえって自分の罪深さがよく見えるようになる」と語っています。この光は奉神礼に参祷し、祈りの言葉に触れ、聖書を読むことで神から照らされる光です。私たちは祈りの中で「確かに私はこの祈りの言葉にあるように罪深さを持っている」と気付くことができます。この光無くして私たちの痛悔という掃除は成り立たないのです。神の光に照らされて、丁寧に掃除機をかけ、より清潔で美しい私たちになれるよう、神への祈りを忘れないようにしたいものですね。
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2024年9月号