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​不来方から

​不来方から

盛岡管轄区の教会報「不来方から」の一部の記事を抜粋して掲載します。

6月号
​巻頭
「昔は塔を建つる者の狂暴の為に言は乱されたり
今は神学の光栄の為に言は曉り易くなりたり」

 最近ではイルカやクジラの仲間、ゾウ、小鳥の一部なども言葉を用いているという研究が進み、「言語」が人間の専売特許であるとは言い切れなくなってきていますが、しかし長いこと言語とは人間を人間として定義し得る固有の能力として考えられてきました。人間は言語を用いることで高度な情報交換を行い、また文字化することで情報を保存、蓄積してきました。鳴き声や吠え声では単純な感情表現、あるいは自分の居場所や縄張りのアピールくらいしかできなかったものが、言語の形を取ることで情報の密度と精度が高まり、やがてそれが大きな文化や文明の礎になっていきました。


 聖書でも、言葉が文明の基礎であることは創世記のバベルの塔のエピソードの中に逆説的な形で表現されています。ノアの洪水の後、人間の文明はみるみる発展し、天を衝くほどの塔を建て、人々を一か所に集め統合し、そしてついには人が神になり替わろうとさえしたと言われています。この人間の野心をくじくのに神が用いたのは「言語の混乱」でした。人々の話す言葉をバラバラにしてしまったことで、人間の計画は崩壊し、もはや巨大な塔を建てることは不可能となり、人々は世界中に散らばっていきました。言葉を失ったら人間は文明を維持できないのです。


 さて、現代の私たちの住む世界を見るに、言語を取り巻く環境は大きな進歩を見せています。ほんの半世紀前ならば、私たちの言葉は口から発せられる音声、それを遠方で繋ぐ電話、文字言語であれば手紙、大きく情報を拡散するのならば新聞、雑誌、書籍、ラジオ、テレビなどの方法しかありませんでした。また他言語話者とコミュニケーションを取るためにはかなりの勉強と分厚い辞書が必須でした。しかし今日では片手に持ったスマホ一つで瞬時に言葉を交わし、世界中の情報にアクセスし、そして世界中の人が見ることのできるプラットフォームに情報を拡散することができます。また生成AIの発展に伴って他言語話者とも翻訳アプリを使ってかなり正確に手早く情報交換をすることができるようになりました。便利な世の中です。


 しかし言語の壁が限りなく低くなった今、人々の交流が進み、人類はより高度な存在へと進化しているのでしょうか。確かに文明の発展の仕方は加速度的です。だからと言って「人倫」の面で人間が進歩しているとはとても思えないのです。人間が自らの持つ「言語」という力を使って何をしているかと言えば、誹謗中傷、憎悪の扇動、他人の秘密の暴露、飽くことのない国家間、党派間の非難の応酬、噂話と人物評価の井戸端会議。表面上いくら言語が通じるようになっても、そのような悪い言葉で本当の疎通など出来ていません。人間は相変わらずバベルの塔を建てては壊し、建てては壊しを繰り返しています。用いる人間が正しくなければ言語はむしろ「最悪の力」として人間を憎悪と分裂に追い立てていきます。


 一方で、五旬祭の日に使徒たちに降った聖神は、彼らに世界中のあらゆる言葉を話させました。それは彼らが世界中に主の福音を伝えるためです。世界にある無数の言語の壁を越え、神の愛と救いを宣べ伝えること。そして世界のバラバラの人々をもう一度神の元に一つに集めること。神がそれを求めたので、使徒たちは世界中の言語を与えられたのです。使徒たちは言語によって人々に教えを伝え、人々を教会に集めました。正教会では世界中の言語それぞれで神を讃え、祈り、祝います。しかし言葉が違ってもその心は一つであるはずです。「主憐れめよ」と祈る人も「キリエ・エレイソン」と祈る人も「ゴスポジ・ポミールィ」と祈る人も同じ心に繋がっています。聖神に満たされた良き言葉を用いる時、私たちは言語の壁を越え、バラバラだった人々が再び一つに結び合わされるのです。神の心に適う言葉を使うのならば、言語は「最良の力」となって私たちを愛と融和に導きます。私たちが「言語」を使って何を話し表現するか、今一度考えてみませんか。

​エッセイ
​「あんぱんまん」

 今シーズンのNHK朝ドラは「あんぱん」、アンパンマンの作者やなせたかし氏夫婦をモデルにしたドラマだそうです。アンパンマンは言うまでもなく、日本を代表する子供向けコンテンツであり、私も幼稚園の頃からアンパンマンのことは良く知っています。


 さて、そのアンパンマンのエンディングテーマになっている「アンパンマンマーチ」についてふと気になるところがあります。歌詞が意外とシビアなんです。「たとえ胸の傷が痛んでも」「愛と勇気だけが友達さ」。決して陽気なだけではなく痛みに言及しているし、ジャムおじさんやバタコさん、カレーパンマンやしょくぱんまん達もいるのに友達は愛と勇気だけって…。また「何のために生まれて、何をして生きるのか」「何が君の幸せ、何をして喜ぶ」、哲学者かというくらい人間の芯の部分を問うてきます。作詞もやなせ氏自身で部外者が適当に作ったというわけでもなく、やなせ氏がアンパンマンに込めた思いがこの歌に反映された結果であると言わざるを得ません。


 この明るさと深刻さのギャップはなんなのかとずっと疑問に思っていたのですが、朝ドラ「あんぱん」関連のネットコラムを読んでヒントになったものがあります。やなせ氏は旧制中学を受験するにあたり戸籍簿を取り寄せたのですが、その戸籍に自分の名前しか書いてなかったことに大きな衝撃を受けたらしいのです。父親はすでに死んでおり、母親は再婚して相手の家の戸籍に移籍している。弟は叔父夫婦の養子になっており転出。結果柳瀬家の戸籍に残っていたのは自分一人で、言いようもない孤独を知ったと。アンパンマンの明るさの内面にはこの孤独感が内包されているのかもしれません。


 突き詰めて考えれば人間とは皆孤独なものです。自分以外には自分はいませんから、たとえ親兄弟や友人でも、本当に全てにおいて自分の事を理解し、受け入れてくれる存在はいません。むしろ身近な人にこそ「なんで分かってくれないの?」という嘆きを感じるわけです。死ぬときも一人です。誰もついてきてはくれず、独りで死に向かって歩かなければなりません。それは裏を返せば生きることだって一人だということです。


 その孤独の中で何が人と人を繋ぎ得るのかという問いに対するやなせ氏の答えが「アンパンマン」なのです。アンパンマンはお腹が空いて困っている人に自分の顔をちぎって与えます。何の打算もなく、困っている人に手を差し伸べて自分自身を分かち合う。もう一方は差し伸ばされた手を掴む。ここに「孤独な者」と「孤独な者」のつながりが生まれます。「何のために生まれた」かと言えば「分かち合うために生まれた」のであり、「何が君の幸せ」なのかと言えば「分かち合うことが幸せ」なのです。依然人は孤独な存在ではあるけれども、与え、受け取り、分かち合った人と人との間に存在する何かはその孤独な者どうしを繋ぎ合わせます。


 そして受け取った者は、次に与える者になっていくのです。やなせ氏が作詞したもうひとつのアンパンマンの歌「アンパンマンたいそう」ではこう歌われています。「アンパンマンは君さ」

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1-2-14 Takamatsu, Morioka city, Iwate pref. 

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