
不来方から
不来方から
盛岡管轄区の教会報「不来方から」の一部の記事を抜粋して掲載します。
11月号
巻頭
「蓋爾等、ハリストス・イイススに在りて一なり」
毎年秋は教区、ブロックの行事が多くあり、他の管轄区の信徒の皆さんと顔を合わせる機会が多くなります。特に盛岡教会の管轄区はお互いの教会所在地が遠く離れており、他教会に顔を出す機会も普段は多くないので、このような行事で遠方の信徒と会って交流するというのはとても有意義なことに感じられます。
私たちは「自分の教会」という事柄を考える時、つい通い慣れた自分の所属する個々の教会を真っ先にイメージしがちです。それは決して悪いことではないし、自分の所属する教会に愛着を持ち、そこを大切に育んでいくことはとても大事なことです。しかし同時にその括りを飛び出して「東北の教会」「東日本主教区の教会」「日本の教会」とより大きなイメージを持ってみることも重要です。私たちは自分たちの小さな教会の中で自己完結するのではなく、もっと大きな「教会」の中のメンバーとして自分を位置付けてみる必要があります。これは単に組織運営上の心構えということではなく、もっと正教の神学的な根本に関わることです。
聖使徒パウェルは各地の教会に送った手紙の中で再三「私たちはハリストスにおいて一つである」と強調しています。(「もはや、ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからである」ガラティヤ3:28。「ところが実際、肢体は多くあるが、からだは一つなのである。(中略)あなたがたはキリストのからだであり、ひとりびとりはその肢体である」コリンフ前12:20,27)これは単に「一致団結しましょう」というスローガンではなく、私たちが洗礼を受けること、ご聖体を受けることを通じて教会にもたらされる神の大きな恵みの神秘を語っているのです。私たちは一人一人が違う人格や個性を持った人間だし、住んでいる場所も違います。考え方や性格も百人百様でしょう。いわゆる「多様性」ですが、これが悪い方向に働くと、私たちは互いに対立し始め、お互いの相違点で争い合い、人間は究極的に一人一人の個人にまで切り分けられてしまいます。存在を許せる他者はいなくなり、自分だけの独善と頑固さによって人は孤独の絶望の中に封じ込められてしまうのです。
しかし教会は「私たちは一つだ」と繰り返します。人間だけではバラバラに分裂してしまうとしても、その一人一人にハリストスが寄り添い、一人一人の中にハリストスがある限り、私たちはハリストスにおいて再び一つになる事ができます。ハリストスは人間を超越した存在として私たちを指図や命令によってひとつにするのではなく、私たち人間の同じ一人となって私たちの中から統合を実現します。それが目に見える形で顕わに啓示されるのが、教会に集う皆が「一つのご聖体」すなわち「一つのハリストス」を分かち合って食べる聖体機密なのです。
私たちがハリストスにおいて一つとなっているのであれば、私たちの個性や相違点、性格や考え方の違いはむしろ私たちの強さとなります。ひとりでは立ち向かうことが困難な課題も、皆の様々な知恵や力を持ち寄って解決することができるでしょう。「多様性」は「統合」の中でこそ真の力を発揮することができるのです。そしてその統合をもたらすのは神から注がれる「愛」に他なりません。
ですから私たちが「自分の教会」を出て、「ほかの教会」の人々と触れ合う機会を持つことは大変素晴らしいことです。もし聖体礼儀を共にすることができるのならばそれに優る交流はないと言えます。「東北の教会」という括りでもまだまだ小さいものかもしれませんが、それでも小さな「自分の教会」の外に広がる景色に触れ、東北から日本、日本から世界へとその広がりをイメージするきっかけになることと思います。会ったこともない他の教会の人々が、自分と同じように祈り、自分と同じようにご聖体を受ける姿を見る時、私たちは確かに知るのです、「この人は私と同じだ」と。一人一人のその思いがやがて正教全体を一つに繋げる大きな潮流となって行くのかもしれません。
エッセイ
「國を司る者」
ここ数週間、日本の政治の動きがあれやこれやと大きく話題になりました。政局というのは多くの人が夢中になり、ああでもないこうでもないと語りたくなるような、何かしらの魅力があるのだなあと眺めています。
さて、正教の奉神礼には「皇帝(天皇)」と「國を司る者」への祈りが織り込まれています。大連祷や重連祷でも祈られるし、祈祷の最後の「萬寿詞」でも祈ります。現在の日本では「天皇」は憲法により「日本国と日本国民統合の象徴」と定められているので、正確には国の統治者ではありませんが、明治時代に祈祷書が翻訳された時点では間違いなく日本を統治する立場でした。また現在は読まれていない祈祷書の古いテキストでは、皇帝(天皇)の次に皇族たち、帝国議会、百官有司(官僚)らについて祈られています。正教は国家の統治というものについて、神の祝福があるように祈り続けてきた伝統があるのです。
これは決して国家の統治者を礼賛し、彼らを無条件に褒め称え追従することを意味しません。教会に属する信徒や神品も一人の国民としては様々な意見や政治的な見解を持っているでしょうし、時の政権に肯定的な人も否定的な人もいることでしょう。それ自体は健全なことですし、民主主義社会が成熟していることの証左でもあります。しかし少なくとも日本の正教会が特定の政治団体や政治思想を、教会として推奨したり逆に排除したりすることはありません。ここで祈られているのは、ただ一重に国家の安定と平安な統治が行われることです。
歴史を振り返れば正教はいつも政治や国際情勢に振り回されてきました。古くはローマ帝国から迫害され、次に一転して国教となりました。やがて異教徒に帝国の領土はかじり取られ、そこに住む人々は異教徒の統治者の顔色一つで自分たちの立場と生命を脅かされるようになりました。あるいは近代帝国の統治機構の中に教会が飲み込まれてしまったり、あるいは無神論政府によって教会が根絶やしにされる寸前まで追い込まれたこともあります。私たち正教徒の信仰生活は、時として政治情勢に大きく左右されてしまう場合があるのです。
私たちが国家の統治者のために祈るということはこの極限の状況を知っているからです。たとえ統治者が異教徒であろうと、無神論政府であろうと、教会は彼等のために祈り続けてきました。神が彼らに国家統治のための知恵と良心を恵み、国が豊かに平安であるように、民衆に穏やかな生活が与えられるように願い続けてきました。それは政治的思想の違いや党派性を越えた祈りです。
聖体礼儀の聖変化の祈祷の直後司祭が黙誦する祝文の中に「主や、彼等(国家の統治者)に泰平の国政を賜へ、我等も彼等の平和により、凡の敬虔と潔浄とを以て、恬静安然(穏やかで平穏なこと)にして生を度らんが為なり」という言葉があります。私たちの穏やかな信仰生活は統治者の政治が正しく行われることによって守られていることを正教は知っているのです。
私たちがなぜ国家のために祈るのか、この機会に考えてみるのも良いかもしれませんね。
バックナンバー
2024年9月号
