​不来方から

​不来方から

盛岡管轄区の教会報「不来方から」の一部の記事を抜粋して掲載します。

6月号
​巻頭
「天の王、慰むる者」

 死から復活し、40日間を人々と共に過ごしたイイススは、エレオン山から天に昇り、使徒たちにひとつの約束を残しました。間もなく彼らが「聖神による洗礼(使途1:5)」を受けるという約束です。そして確かに使徒たちは、昇天から10日後、五旬祭の日に、天から火の舌の形で降ってきた聖神を受け、新たに生まれ変わったかのように世界中にハリストスの福音を宣べ伝えていきました。

 さて「聖神」とは至聖三者の神のおひと方であり、決して神の力や恵みというような無人格のものではありません。そうではなく、父や子と同じように完全に独立したひとつのお方です。しかし父のように声をもって人々に語る場面も、イイススのように人間の本性をご自身のものとして私たちと直接触れ合う場面も聖書には記されていません。その姿は依然隠されており、私たちは聖神というお方についてはっきりしたことを知ることができないのです。イイススは聖神を「思いのままに吹く風(イオアン3:8)」に例えられました。風がどこから吹きどこに向かうのか誰も分かりません。


 しかし分からないからといって存在しないわけではなく、イイススは私たちに聖神について証しています。イイススは「聖神」を「真理を教える(イオアン14)」方として示されました。私たちは聖神の導きにおいて、イイススが神の子であると知り、神への信仰を得ることができます。見えないし分からないけれども、私たちにいつも密接に寄り添い、私たちを正しく生かし導く方が神・聖神なのです。


 私たちがさまざまな場面で歌う「天の王慰むる者」は聖神に向けられた祈りです。この祈りにおいて私たちは聖神に対して様々な表現で呼びかけます。「天の王」とは聖神が父や子と同じく真の神であることを示し、「慰むる者」は、イイススが昇天して地上を去ってしまったかのように見える悲しみを、イイススは確かにともにいるということを示し慰めてくれる聖神の働きを表現しています。「真実の神(しん)」とは聖神の導きにおいて私たちが真理、つまり神について知ることができることを示し、そして聖神は宇宙のどこにあっても「在らざるところなき者(いないところが無い)、満たざるところなき者(満ちていないところが無い)」ことが確認されます。「萬善」、あらゆる善さは聖神によってもたらされ、聖神の働きによってすべての生命が生きる者となります。


たとえ見えなくても、声が聞こえなくても、世界を覆い育む聖神の恵みがあってこそ私たちの存在は良きものとして生きることができるのです。

五旬祭の日、使徒たちに聖神が降り、使徒たち一人一人はもちろんのこと、使徒たちの集まり、すなわち教会全体も良きものとして生きるようになりました。そしてその時聖神によって与えられた教会の生命は、今なお私たちの教会において息づいています。教会がただの人間の集まりに過ぎないように見えたとしても、ここには確かにハリストスが臨在し、神からの永遠の生命の贈り物、すなわち聖体を受けることができます。それは聖神が教会を生かし続けているからです。聖神が教会に降り続けているのならば、それはただの人間の組織を越えて、ハリストスのからだとの確かな一致であり、この世と神とを結びつける特別な集まりです。これは聖神がもたらす神秘です。この神秘の始まりとして、私たちは五旬祭での聖神の降臨を祝い、そしてたたえ続けるのです。
 

エッセイ
​「ライブ」

 皆さんは音楽アーティストやアイドルのコンサート、ライブに行ったことはありますか?私はPerfumeという三人組のユニットが好きで何度かそのライブに足を運んだことがあります。ライブというのは不思議なもので、ただ音楽を聴いたり、テレビで見たりするのとは違う強烈な体験と感覚を得ることができます。アリーナ全体に重低音が響き、スモークが焚かれ、レーザーのまばゆい光が次々と明滅し、そしてついに主役たちが現れたときに会場の興奮は最高潮に達します。あの感覚は実際にライブに行った人なら「分かる」となるでしょうし、行ったことが無ければ「何のことだろう」と思うかもしれません。

 話が変わって、私たちの教会について。先日私たちは聖大パスハ、復活祭の祈りを行いましたが、この復活祭の喜びもまた「ライブ感」にあります。私たちは主の受難と復活を過去の記録としてビデオで見るように眺めているのではなく、今目の前で起きていることとして体験します。聖大木曜日の機密の晩餐(最後の晩餐)、その後の逮捕、金曜日の十字架刑と葬り、土曜日の復活と死への勝利の暗示、そして復活祭の夜に記憶される光り輝く主の復活、そのすべてが強烈な「ライブ感」として私たちに叩き込まれます。


 それでは私たちは「主の復活」というライブを見に来た「お客さん」なのでしょうか。

 いえ正確に言えば「お客」ではありません。私たちは主の復活の「当事者」です。

 先ほどのPerfumeのライブの話に戻ると、ライブの終盤、メンバーのひとりが会場に向けて語りかけました。「Perfumeはみんながいて、全員がPerfumeじゃけえ」。ステージで歌い踊る三人だけではなく、音響、光学、その他のスタッフ、そしてライブに参加した全員がそのメンバーです。「私たちは見せる側、あなたたちは見る側」ではなく、声を上げ、手を振り、呼びかけに全力で応えるあなたたちファンもまたこのライブを作っているかけがえのない仲間なのだ、と。これはファン冥利に尽きる言葉だなと思ったものです。

 私たちの教会も同じことです。私たちの教会に「お客さん」はひとりもいません。復活祭だけではなく、あらゆる祈祷で、私たちはそのお祈りを形作っている大切なメンバーなのです。神さまだけが教会なのではなく、司祭だけが演者なのではなく、そこにいる全員がいてお祈りであり、教会なのです。
教会の祈祷は私たちが当事者として関われば関わるほど、豊かで光り輝く「ライブ感」を増していきます。そして私たちは神の栄光と喜びを体験することができます。これからももっと、ともに素晴らしいお祈りを味わっていきたいものです。