​不来方から

​不来方から

盛岡管轄区の教会報「不来方から」の一部の記事を抜粋して掲載します。

12月号
​巻頭
「今日神を容るる殿たる生神女は主の殿に携えられ
ザハリヤはこれを接く

 生神女マリヤは、年を経た両親、イオアキムとアンナの娘として生まれました。彼らにはずっと子が無く、二人は神に「子を与えてくれたら、私たちはその子を神殿に捧げます」と誓いを立てていました。するとアンナはみごもり女の子を生み、その子はマリヤと名付けられました。これが10月に記憶される「生神女誕生祭」の出来事です。マリヤは両親のもとで大切に育てられ、3歳になった時に神殿に連れてこられました。大祭司はマリヤを神に仕える者として引き取り、イオアキムとアンナの誓いは成就されました。幼いマリヤは神殿の床で歓び踊り、神殿のすべての人々はそれを微笑ましく喜びました。またマリヤは神殿で大切に育てられ、天使が彼女を育み世話をしたと教会の伝統は伝えています。これが生神女進堂祭で私たちが祝う出来事です。
 
 マリヤは神に仕えるものとして神殿に捧げられましたが、これはマリヤのこれからの生涯を預言するものであると言えます。マリヤは神殿の小間使いの少女にはとどまらず、神をこの世に迎えるための母の胎となったからです。神である方を自らの中に宿し育み、生まれた幼子を大きくなるまで養育するという、これ以上ない「神への奉仕者」としてマリヤは選ばれました。幼いころにマリヤが神殿に捧げられたのは、神の計画という大きな視点から見れば、まさに「神の母」としての役割の始まりだったのです。マリヤは神に仕える者として捧げられ、その役割を一生を通して全うしました。生神女進堂祭では、この神の計画の深遠さと、神のために捧げられた生神女マリヤの栄光を褒めたたえます。

 一方で私たちが忘れてはならないことがあります。それは私たちにもまた神から与えられた役割がそれぞれあるということです。生神女は神殿に務める者として、そして図らずも神を生む者として捧げられ備えられました。私たちも洗礼を受けキリスト者となった時に、同じように神に捧げられ備えられています。私たちの役割は神の親となるほど大それたことではないでしょう。しかしそれぞれの人間に、それぞれの役割が神から与えられています。私たちは自分の人生を通して、この各々の役割を果たしていかなければならないのです。あるいは家族を養うこと、あるいは仕事を通じて社会に貢献すること、人々に愛を示し平安をもたらすこと、どんな小さなことでも、それは私たちに与えられた神からの役割です。生神女が自らの胎を入り口として神の子をこの世界に迎え入れたように、私たちも自身の人生を用いて神の栄光をこの世に導き入れ輝かします。私たちが自らの役割を、神への愛と信頼、隣人への思いやりをもって果たすとき、神の栄光が示されます。会社員であっても主婦であっても、職人であっても芸術家であっても商売人であっても、父であっても母であっても子であっても、私たちには与えられた役割があるのです。

 私たちキリスト者が生きるということは、生神女が捧げられたように、そのすべてが神に捧げられているということです。私たちの日々の仕事や生活も神に捧げられています。私たちが善く生きることがこの世に神の働きをもたらし、この世を神の栄光と平安で包むのです。私たち一人一人が、神からの役割を担ったかけがえのない存在であることを、生神女進堂祭を通じて知り、喜び祝いたいものです。

エッセイ
​「クリスマスソング」

 近年の「クリスマス商戦」の始まりは年を追うごとに早まっているように感じます。昔はクリスマスムードは12月に入ってからという感じでしたが、最近では10月31日のハロウィン商戦が終わったら、即座にクリスマスカラーに模様替えという印象が否めません。それの是非はひとまず置いておいて、町がクリスマスムードになると同時に、私たちが耳にする機会の増えるものがあります。クリスマスソングです。サンタが町にやって来たり、恋人がサンタクロースだったり、鈴が鳴ったり、あわてんぼうだったりと、まあ実にたくさんのクリスマスソングがあるものだと感心さえします。そんな数多あるクリスマスソングの中で、私が個人的に一番おすすめなのは「諸人こぞりて(Joy to the World)」です。他のクリスマスソングの多くが、恋人との甘い思いや、プレゼントやパーティの楽しさを歌っている中で、この歌はまさに直球のクリスマスの喜びを表現しているからです。
 ここで英語の1番の歌詞を直訳してみます。

 世界に喜びが!
 主がいらっしゃったのだ
 大地は主を迎えよ
 全ての者が心に主を迎え入れよ
 天よ、地よ、讃め歌え
 
 おお、主の到来をストレートに讃美しているのが分かりますね。ちなみに日本で歌われている歌詞は

 もろびとこぞりて 
 迎えまつれ
 久しく待ちにし
 主は来ませり 主は来ませり

 

 日本語の特質上、どうしても英語より意味が少なくなってしまう傾向はありますが、それでも「主の到来」を喜ぶ気持ちはよく伝わります。そして「久しく待ちにし」という英語にはないフレーズが実に良い味わいを出しています。そう、私たちは救世主の到来を心から待ち望んでいたのだ、という気持ちがこの1節から感じられます。

 巷に流れるクリスマスソングの中でも、この「諸人こぞりて」は群を抜いて「クリスマスらしい」歌だな、と思うのです。これからのシーズン、町を歩いていてこのメロディが聞こえたら「そうか、主の到来の喜びがクリスマスの喜びだ」と思い出してくださいね。


(そのほか「荒れ野の果てに」の最後に歌われる「グロリア・イン・エクセルシス・デオ」という言葉は、私たちも歌う「いと高きには光栄神に帰し」と同じ意味のラテン語です。主の降誕の夜、天使たちが現れ歌った歌として福音書に記載されています。「きよしこの夜」もキリスト教的ではありますが、個人的には降誕祭には「静けさ」より「喜びの輝き」の方が似合うような気がします)