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​不来方から

​不来方から

盛岡管轄区の教会報「不来方から」の一部の記事を抜粋して掲載します。

11月号

​巻頭

「体は一、神は一、爾等が召されたる召しの望の一なるがごとし」

 教会の奉神礼の暦において、11月後半の主日聖体礼儀では聖使徒パウェルがエフェス人に宛てて書かれた手紙が朗読されます。エフェス書の重要なテーマは「一つになる」ということです。人間が一人一人別個の存在であるということは、きっと誰もが今までの人生の経験の中でよく知っていることでしょう。世間には気の合わない、考えの合わない人がたくさんいるし、価値観や人生観もみな一人一人違う、政治的な意見も違えば、好きなスポーツチームだって違う、さらに言えば自分を一番理解してくれるだろうと期待している家族でさえ、自分のことをまったく分かっていないということに直面するときもあります。

 この手紙の中でパウェルは「二つのものが一つになる」ということを強調します。二つである、ということは他者同士が完全に別の存在であるということを意味します。「ユダヤ人と異邦人」「老人と若者」「男と女」、人間はいつも自分と異なる他者を見つけて、その違いにおいて分裂します。また人間同士が分裂しているだけではなく、私たちは神を忘れ、神を離れ、神からも分裂します。もはや私たち一人一人の人間にとって、神も人間も「他者」はことごとく敵となり、「自分はこの世界にたった一人なのだ」という絶望に行き着きます。人間は一人一人が別個の意志と存在を持った、完全に独立した存在です。そしてそれゆえに人間は「孤独」という苦しみといつも隣り合わせなのです。

 しかし私たちハリストスの福音を信じ集まる者は、ハリストスにおいて一つとなります。ハリストスのたった一つの体、すなわちご聖体を分かち合う私たちは、ともに「教会」という一つのハリストスの体となります。それは孤独とは全く無縁です。私たちは世界中でご聖体を領食する人々と、そして古代から現代に至るまで、あらゆる時代にご聖体を領食する人々と一つになるからです。

 一つになるということは、決して大きな存在に飲み込まれ「自分」という自我や意志が消失することではありません。むしろ「自分の意志」によって、教会というこの一体性に自分を投げかけ、そしてハリストスの体における合一が強まれば強まるほど、その人の真の個性は光輝くものとなります。「個性」という名のもとに無理やりひねり出し、悪目立ちするだけの偽りの個性などとは違う、本当の個性の輝きです。それは聖人の聖性として表れ出る光です。ハリストスにおいてのみ、私たちは「二つであり、そして一つである」ということを実現することができるのです。

 私たちは孤独ではないし、だからと言って無個性で無意志な人間の集合でもありません。教会にはその希望がいつも輝いています。ともに祈り、ともにご聖体をいただき、神と人々と一体となる、これが聖体礼儀の喜びであり、教会の意味です。聖使徒パウェルが私たちに伝えているこのメッセージを、教会に生きる私たちはいつも忘れないようにしていきたいものです。

エッセイ
​「栄光に向かって走る」

 私が小学生のころブルーハーツの「トレイントレイン」という歌が流行りました。今でも同年代の友達連中とカラオケに行くと誰かしらが必ず歌うくらい根強い人気があります。やんちゃなお兄ちゃんたちのノリと勢いが全開といった曲ですが、改めて歌詞を読むと案外深いところをえぐっている気がするのでご紹介します。

 ここは天国じゃないんだ 
 かといって地獄でもない
 いい奴ばかりじゃないけど
 悪い奴ばかりでもない

 この歌詞を読んだときに、この世界の姿ってこうかもしれないなと思いました。私たちは人間自身の罪によって神を離れてしまいました。したがってここは天国ではありません。一方で、いくら堕落したといっても、何の希望もなくただ滅びる運命にあるわけでもありません。したがってここは地獄でもないのです。罪のない人間はいませんし、でも誰にでも何かしらの善き心は残っているはずです。私たちは「いい奴」と「悪い奴」の間をいつも揺れ動いています。天国でもない、地獄でもない、いい奴でもない、悪い奴でもない、そこでもがきながら生きているのが人間です。

 いやらしさも汚らしさも
 むきだしにして走っていく
 聖者になんてなれないよ
 だけど生きているほうがいい

 正教会は自らを「正しい教会」「永遠の生命に至る門」だと自認していますが、しかし正教徒になったからといって、たちどころに悩みや悪の心が消え、聖人のようになれるわけではありません。もしかしたらガッカリするくらい何も変わらないかもしれない。むしろ今まで以上に自分の罪があからさまに見えるようになり、もっと泥臭くかっこ悪い戦いが始まるかもしれません。しかしそれが「キリスト者として生きる」ということです。

教会は「天国でも地獄でもないところ」から出発し「栄光に向かって走るあの列車」です。多少乗り心地がよくないこともあるかもしれないし、ところどころオンボロかもしれない、でもこの列車だけが自分たちを本当の目的地に連れて行ってくれると信じて、しがみつきながらひた走る。それが私たちキリスト者の姿なのかもしれませんね。

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