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​不来方から

​不来方から

盛岡管轄区の教会報「不来方から」の一部の記事を抜粋して掲載します。

4月号
​巻頭
「新たなるイエルサリムよ、光り光れよ」

 伝統的に正教の復活祭は深夜の祈祷として行われます。夜は安らぎの時であり、また眠りと死のイメージを持つ時間でもあります。真夜中の聖堂に集まった私たちの前には、主ハリストスが死んで横たわっている姿を描いた「眠りの聖像」が安置されており、明かりの灯されない暗闇の中で、静かに「夜半課」の聖歌が歌われます。この時、私たちのいる聖堂は明らかに主の墓の中の様子を象っています。金曜日の夕方、十字架上の苦しみの中で息を引き取ったイイススは、まだ誰も使ったことのない新しい墓に葬られ、その戸口は重い石で閉ざされました。土曜の深夜、すなわち復活祭の祈祷の始まりの時、私たちは死んだ主とともにこの墓の中にいます。夜半課の祈祷の中で、眠りの聖像は司祭によって静かに至聖所へと運ばれ宝座の上に置かれます。司祭は一言も言葉を発さず、聖歌は淡々とカノンを歌い続けています。主の復活の瞬間は誰にも目撃されていない神秘なのです。


 やがて信徒たちは聖堂から出て、外の暗闇の中を行進し、聖堂の門の前に立ちます。ハリストスの死に立ち会った女たちは日曜日の朝早く、まだ日が昇る前から準備をして主の墓に急ぎました。イイススの遺体に香油を塗るためでした。暗闇の中を「少しでも早くイイススの所に行きたい」と足早に墓に向かった女たちの姿を私たちは辿っています。墓の前に立った女たちは異変に気付きました。墓の戸を封じていた重い石はどけられ、そこには光り輝く天使がいたのです。主の遺体はそこになく、体を包んでいた布だけが残されていました。天使は「主は復活した」と女たちに告げたのです。


 私たちが聖堂の前で「ハリストス復活!」と声を上げるとき、私たちはこの女たちと同じ体験をしています。聖堂の扉、すなわち主の墓の石を開けて中に入ると、そこは「昼よりも明るい」と言われるまぶしさが私たちを待っています。出発したときは真っ暗闇であった聖堂が、今や煌煌と光り輝いています。聖堂の外は依然暗闇なのに、祈る私たちは一点の陰りもない光に照らされています。この明るさは復活祭を体験した人にしか分からない明るさです。夜の闇、死の力を主の復活の生命の光が打ち払い勝利したことを私たちは知識ではなく体験として「知る」ことができます。それは確信とも呼べるものです。「新たなるイエルサリムよ、光り光れよ」と歌う言葉の意味を私たちは確かに知っています。


 私たちの復活祭は主の復活の記念式典ではなく、ましてただの年中行事などではないのです。「主が復活したことを思い出しましょう」「記念しましょう」というどこか客観的な出来事ではなく、まさに主の復活、一度きりの主の復活の時の中に自らを投げ込み全身全霊でその復活の光を浴びることです。時間と空間を越えて主の復活に与ることは科学的に説明することでなく、神秘=機密として体験されることです。この復活祭があるからこそ正教は2000年間その伝統を繋いできたとさえ言えるでしょう。


 そんな復活祭が今年もまたやってきます。どうか一人でも多くの皆さんが復活祭に参祷され、この光り輝く体験を味わってほしいものだと願っています。良い復活祭を迎えましょう。

​エッセイ
​「突っ込まないツッコミ」

 ぺこぱという漫才コンビがいます。数年前に漫才の賞レースで良い成績を出して以来、テレビでもちょくちょく見かけるようになりました。一般的に漫才はボケとツッコミの会話で進んでいきます。ボケが何かおかしい、あるいは明らかに間違ったことを言い、それに対してツッコミが「違うだろ」とか「なんでやねん」と間違いやおかしさを指摘して、そこに笑いが生まれます。しかし彼らの場合はツッコミが突っ込まないところに面白さがあります。ボケは明らかにおかしなことをしているのだけれど、ツッコミの方が突っ込もうとして、はたと考えてしまいます。「いいや、もしかしたら俺の方が間違っているのかもしれない」。ボケがステージ上で真横を向いて漫才をしていても「俺の知らない間に正面が変わったのか?」


 さて、なんでこんな話から始めたのかといえば、それは教会がしばしば教える「人を裁くな」ということと、この突っ込まないツッコミに通じる部分があるからです。私たちは人の行動や発言を見聞きして、それに違和感を覚えると「あいつは間違っている」「あの考え方はおかしい」と即座に心の中でツッコミを入れます。しかもそのツッコミは笑いをもたらすものではなく、むしろ怒りや蔑み、優越感や妬みをもたらす良くないツッコミです。「それは違うだろ」が容易に「あいつは馬鹿だ」「あいつは悪人だ」「あんな奴らは地獄に落ちる」に変わってしまいます。ちっとも面白い話ではありません。


 しかし私たちはここで立ち止まって考えなければなりません。自分は相手をそんなに簡単に決めつけてしまえるほど、全てのことが分かっているのでしょうか。その人の表面に出てきた行動や発言にある背景を知っているのでしょうか。そもそもその行動や発言の意図を曲解せず正しく受け取れているのでしょうか。自分が知り得た断片的な情報と、自分の持つ限られた理解力の中で本当に「それはおかしいだろ」と言い得るのでしょうか。


 「人を裁く」ということは、自分の限定的な判断基準で、相手の正誤、善悪を決めつけてしまうことです。本当はそんなことできるはずがないのに。人の悪事を見て見ぬふりしていいわけではないですが、もしそれを正そうとするのなら、十分に「本当に自分は正しく状況を認識しているか」「今それを正すことがふさわしいのか」吟味しなければならないでしょう。その前提にあるのは「自分は決して善人ではない」「強い人間ではない」「知らないことの方が多い」という謙遜の心です。自分の内面を正しく見つめれば見つめるほど、「自分の思う正しさ」がそんなに確固たるものではないことを知るでしょう。そこから「人を裁かない」というキリスト者の生き方は始まります。


 もし人の言動を見聞きして、思わず「それはおかしい」と言ってしまいそうなとき、心の中のぺこぱに尋ねてみましょう。「それはおかしい!…とは言い切れないのかもしれない」。突っ込まないツッコミ、身に付けてみませんか?

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