​不来方から

​不来方から

盛岡管轄区の教会報「不来方から」の一部の記事を抜粋して掲載します。

9月号
​巻頭
「我等衆も此の主の十字架を堅くたもちて誇りと為すべし」

 9月27日、私たちは十字架挙栄祭をお祝いします。このお祭りは主の十字架がエルサレムで発見され、人々に高く掲げられたことを記念するものです。十字架の印は言うまでもなくキリスト教のシンボルであり、私たちの教会にも屋根の上に高々と十字架が掲げられています。十字架は世界中で常に「挙栄(高く掲げられ讃美される)」され続けているのです。ではそもそも十字架とは何なのでしょうか。


 もっとも直接的に言うのならば、それはイイススを殺すために用いられた刑具です。当時死刑にはさまざまな方法がありましたが、その中でも最も重大な犯罪者に課せられたのが十字架刑でした。木に手足を釘付けて晒し、長時間苦しみを味合わせ「帝国に逆らうとこのような目にあうぞ」と人々を震え上がらせるための刑が十字架への磔です。


 十字架とは何か、という問いに神学的に答えるのであれば、それは「勝利の印」です。しかしその勝利は一見勝利には見えない勝利です。イイススは捕えられ鞭打たれ嘲られ、そして十字架に晒されて死にました。これがどうして勝利なのでしょうか。圧倒的敗北にしか見えません。あるキリスト教神学者たち(特に西方教会に顕著ですが)はイイススの受難を「私たち人間の犯した罪の刑罰を代わりに受けて下さり、苦しんで死んだ」と解釈しました。イイススの苦しみによって人間の罪が代わりに贖われたのだ、という法律的理解です。これが間違いだとは言いませんが、正教会では少し異なる解釈が好まれます。ハリストスは苦難の内にあってなお、人々に対する愛を止めませんでした。自分たちを苦しめる人々の赦しのために神に祈りました。悪魔はイイススを激しく誘惑したことでしょう。「自分をひどい目に遭わせるこいつらを憎み滅ぼしてしまえ」と。現にイイススも「私が父に願えば12軍団以上の天使を送ってくださる(マトフェイ26:53)」と言っています。しかしイイススはそれをしませんでした。ただ黙って耐えました。「お前が神の子なら自分を救ってみろ(マトフェイ27:40他)」と人々に嘲笑われても、神の力で十字架から降りるようなことはしませんでした。イイススの人々への愛は最後まで折れず、悪魔の誘惑によって憎しみに落ちることもありませんでした。これは悪魔の誘惑に負け続けてきたアダムとエヴァ以来の全ての人間の敗北に対して、勝利でした。人間が失い続けてきた神との関係を、人となった神である方が完全に成就しました。神との和解は人間に永遠の生命をもたらします。イイススが死んだとき、至聖所を隠す神殿の幕は真っ二つに割け(マトフェイ27:51他)、神と人とが再び繋がったことが証されました。イイススが死んだから敗北したのではありません。イイススが死に、その死によって、神の永遠の生命に至る道を再び開いてくださったから、そしてご自身の復活によりそれを証明してくださったから、これは勝利なのです。


 ハリストスの受難と死、復活によって、十字架は死と苦しみのシンボルから、勝利と生命のシンボルへと変わりました。私たちは教会の一番高いところに十字架を掲げます。家庭の祭壇に置きます。胸に下げます。十字の形に聖水をまき、十字の形に油を塗ります。そしていつも十字を画き私たち自身にその印を描きます。私たちの生活のいたるところに十字の印を掲げ、主の復活の勝利、永遠の生命の喜びを表現します。十字架を挙栄することとは、ハリストスに連なる者としての私たちの矜持と歓びを表明することに他ならないのです。

エッセイ
​「そこに愛はあるんか?」

 女優の大地真央さんが「そこに愛はあるんか?」と様々なシチュエーションで問いかける、とある消費者金融のCMがあります。コントのようなコメディタッチで、大地真央さんの大げさな演技と相まって、見るとクスっと笑ってしまうのですが、「そこに愛はあるんか?」って、実は私たちにとってかなり大切な問いなのではないでしょうか?

 福音書の中で、イイススはしばしば、一見するとユダヤ教の律法に反するようなことを行います。労働してはいけない安息日に病人を癒したり、汚らわしいとされた徴税人や遊女たちと交際したり。そのたびに律法学者やファリサイ派たちは「あいつは律法を守らない人間、正しくない人間だ」と心の中で、あるいは公然と声に出してイイススを批判しました。それに対するイイススの答えこそ「そこに愛はあるんか?」だったのではないでしょうか。「律法を一字一句に至るまで守るあんたたちはご立派だが、そこに愛はあるんか?」と。律法をどんなに形通りに守っても、本来そこに血のように流れているべき愛を失ってしまったら、そんなものは死んだものと同じだ。愛があってこそ律法の本質は成就し、完成するのだ、とイイススは律法学者たちに言いたかったのではないでしょうか。

 私たちもしばしば「あれか、これか、どちらが『正しい』のか」という問いに悩みます。「あれが正しいならこれは間違っているし、あれが間違っているならこれが正しい」。判断に悩み、こんなふうに物事を単純化して捉えようとしていないでしょうか。「正しい」「間違い」という判断基準はその単純さゆえ力強く、時に私たちの人生に強い推進力を与えてくれます。しかし一方で「正しさ」の側から「間違い」の側を厳しく糾弾し、排斥してもいいのだ、という意識も生まれてきます。世の中の不幸のほとんどすべてはここから生まれると言っても過言ではないでしょう。

 だからこそ私たちは、何かを判断するときにはいつも「そこに愛はあるんか」という問いかけを自らにしなければなりません。自分の判断に愛は加味されているのか、意見の異なる相手へ愛を欠いていないか、いつも立ち止まって問い直します。すると様々な問いが、簡単に白黒の判断を付けられないことに気付くでしょう。「正誤」ではなく「愛の有無」で判断することは、時としてうやむやで決定力に欠きます。それでもどちらかに決断しなければならない時もあるでしょう。しかしそこで一度立ち止まって愛の視点で悩んで出した決断は、同じ結論だったとしても、単純な「正誤」で出した結論より暖かく思慮深いものとなるでしょう。


 私たちはハリストスからいつも「そこに愛はあるんか?」と問われていることを忘れてはならないのです。