​不来方から

​不来方から

盛岡管轄区の教会報「不来方から」の一部の記事を抜粋して掲載します。

5月号
​巻頭
「ハリストス救世主よ、爾の復活は全世界を照らせり」

 先月の24日、私たちは今年の復活祭を迎えました。復活祭から数えて40日間を「復活祭期」と呼び、今年の5月はまるまるこの期間に当たります。この期間、教会で祈祷が行われる時は「聖使徒行実」という書物が読まれます。これは新約聖書の4つの福音書の後に置かれている巻で、主の昇天後の使徒たちの働きを記録したものです。


 主の弟子たちは復活したイイススと出会い40日間を過ごした後、エレオン山で天に昇っていくイイススを見送りました。その後彼らが集まって祈っていると強い風が吹き、神・聖神が炎の舌のような形で使徒たちに降り、彼らは世界各地の言葉を語り始めました。使徒たちの働きはここから始まります。聖使徒ペトルを始め、使徒たちは世界各地に旅立ち、行く先々で主の福音を伝え、あらゆる人々をキリスト者に迎えました。牢に投獄されたり、時には迫害にあって殺される使徒もいましたが、彼らの働きが止むことはありませんでした。後には使徒と教会を迫害していた男も、神の奇跡に打たれ、使徒の一員に加わり、パウェルという新しい名で伝道に大きな成果を顕しました。

 この使徒たちの働きの記録が復活祭期になぜ読まれるのか。それは復活の出来事と使徒による福音伝道の動機が密接なものだからです。使徒たちはなぜ世界中にハリストスの福音を伝えようとしたのでしょうか。ハリストスの教えが素晴らしい道徳だからでしょうか。あるいは役に立つ人生訓だからでしょうか。ハリストスを信じると素晴らしいご利益があるからでしょうか。違います。使徒たちが「主の復活」という出来事に強烈に打たれたからです。イイススがユダヤ人の指導者たちに逮捕され、弟子たちは蜘蛛の子を散らすように逃げ去りました。女弟子たちが主の墓で天使に出会い、イイススの復活を告げられたと弟子たちに話した時も、彼らはそれを信じませんでした。人一倍名誉欲や上昇志向が強く、イイススご自身が宣教した福音の真意も悟れなかった弟子たち、主の受難にあって怯え惑い、「私はあの人のことを知らない」と噓をついて逃げようとした弟子たち、彼らの前に復活したイイスス本人が現れました。驚き戸惑う弟子たちですが、しかしそれはやがて大きな喜びに変わります。ペトルは小舟の上から、湖岸に立つ復活したイイススを見付け、裸のまま海に飛び込みそのまま主に駆け寄りました。クレオパともう一人の弟子は、旅人と宿で夕食を共にしたときに、それが復活した主だと気付き、胸の中に炎が燃えるような喜びを抱きました。弟子の中で最も疑い深かったフォマは、イイススご自身の手足と脇の傷口に触れ「我が主よ!我が神よ!」と叫びました。復活した主に出会うということは、人にそれほどの歓喜を与えるのです。


 「主の復活」という出来事の生々しい体験が弟子たちを変えました。物わかりが悪く、そのくせ見栄っ張りで怖がりで疑い深い弟子たちはもはや過去のものとなり、賢く強く信仰と忍耐を持った「聖使徒」に生まれ変わりました。使徒たちが世界に伝えたかったのは「主の復活」という大いなる喜びです。自分たちが体験し変えられたこの喜びを世界中に伝えなければならない、という使命感が使徒たちの宣教の動機にあるわけです。だから復活祭期に聖使徒行実が読まれます。ハリストスの復活を体験した使徒たちがどのように世界に駆け出して行ったのか、私たちは改めて復活祭期に学ぶのです。

 復活祭を迎えお祝いした私たちにも決して関係ないことではありません。使徒たちの喜びが世界中に伝わり、教会が建てられ、その教会が2000年間引き継がれてきたのです。私たちの教会は、今日でもこの使徒たちの喜びの上に建てられています。主の復活を祝い、使徒たちの働きを学ぶとき、私たちの中に脈々と息づいている使徒たちの喜びの原点を見出すことができます。そしてその喜びに触れた私たち自身も、主の弟子たちのように、もはや古く弱いものではなく、主の福音を生きる新しく強いものに変えられていくのです。復活祭に喜びを感じたのならば、それはキリスト者としての私たちの信仰と力の源です。使徒たちが味わったのと同じ喜びを、私たちも大切にしていきたいものです。

エッセイ
​「三百六十五歩のマーチ」

 かなり古い歌で、全然私の世代でもないのですが、水前寺清子さんの「三百六十五歩のマーチ」という作品があります。印象的なメロディと特徴のある水前寺さんの声で多分皆さんも知っているのではないかと思います。この歌を平たく月並みに説明をすれば「人生の応援歌」とでも言ったところでしょうか。しかしこの歌の歌詞を改めて読んでみるとなかなか示唆に富んでいるんです。

 「一日一歩三日で三歩、三歩進んで二歩下がる」
 正教会は「救い」ということを、単に「最後の審判で神さまから合格判定をもらうこと」とは考えません。「洗礼を受けて天国行きの資格を得ること」とも考えません。キリスト者となることによって、人間の本来の可能性が開かれ、より神に似た者、より尊く聖なる者になる道を歩み始めたと考えます。その道筋を歩むことそのものが「救い」であると言えるかもしれません。聖人たち、特に「克肖者」と呼ばれる人たちはこの道をよく歩んだ人々です。そして聖人でない私たちにも、この道は無縁ではありません。私たち一人一人もささやかながらこの道を歩んでいるのです。その道は決して容易ではありません。神に似た者、善い者になろうとして、上手くいくときもありますが、誘惑や怠惰さに負け、道を後退してしまうこともしばしばです。神への道は一直線に前進できるものではなく、「汗かき、べそかき」行きつ戻りつ歩むものです。しかし逆に言えば、罪によって失敗をしてしまったとしても、そこでくじける必要はないのです。この道は罪の失敗によって一発で失格になる道ではなく、あきらめずに何度でも前に進もうとする限り、いつでもチャンスの与えられる道だからです。

「幸せの扉はせまい、だからしゃがんで通るのね」
 この二番の歌詞は知りませんでした。これも私たちに通じる言葉です。私たちが天国の門をくぐるとき、ふんぞり返って傲慢な心は門に引っかかって中に入ることができません。自らを天国に最もふさわしくない者として謙遜に、しかし天国に入りたいという意志を捨てない者が、身をかがめて天国の門をくぐるのかもしれません。

「あなたはいつも新しい」
 この歌詞も知りませんでしたが、これもいい言葉ですね。神に似た者を目指す道を歩む者は、歩み続ける限り常に「新しい」自分です。停滞や後退もあるかもしれませんが、前に進む意志を失わない限りは、私たちはいつも「最新の自分」です。この道は「これで終わり」という地点はなく、生きている間(もしかしたら死んでからも?)私たちは成長する余地が無限に残されています。聖使徒パウェルはこのことを「栄光から栄光へと主の姿へと変えられる(2コリ3:18)」と表現しています。

「君の行く道は果てしなく遠い」かもしれませんが、それでもたゆまず歩み続けたいものですね。(あ、これは違う歌だった!)