top of page

​奉神礼について

​奉神礼について

奉神礼とは「礼拝」や「典礼」を表す正教会の言葉です。

正教徒にとって奉神礼こそが、キリスト教徒としての生活の中心であり​、もっとも重要なものです。

​ここでは私たちと特にかかわりの深い奉神礼についてごく簡単にお話しします。

​聖体礼儀について

 正教徒にとって、正教徒であることの意味のすべては、この聖体礼儀にあると言っても過言ではないでしょう。聖体礼儀とはイイスス・ハリストス(イエス・キリスト)の体と血となったパンとぶどう酒を領食する奉神礼であり、ローマカトリック教会の「ミサ」、プロテスタント教会の「聖餐式」に相当する祈祷です。私たちは日曜日ごとに教会に集い、祈り、感謝してパンとぶどう酒を神に捧げます。そのパンとぶどう酒は「聖体」すなわちハリストスの体と血となって私たちに与え返され、それを領食する私たちはすべての罪が許されて永遠の命に至ることができる、と私たち正教徒は信じています。この聖体を人々に分かち与えることこそが、教会の役割であり本質です。イイススは機密制定の晩餐(最後の晩餐)の席において、使徒たちにパンを割きぶどう酒を与え、それが自分の体血であること、それが人々の罪の赦しとなると宣言し、そしてこれからも同じように行うように命じました(ルカ22:17-20、コリント11:23:25)。聖体は私たちを生かし、神の国へと導くイイスス・ハリストスそのものです。だからこそ私たちは2000年にわたって聖体礼儀を守り続けてきたのです。

わたしは天から下ってきた生きたパンである。
それを食べる者は、いつまでも生きるであろう。
わたしが与えるパンは、世の命のために与えるわたしの肉である。
イオアン(ヨハネ)6:51
ポティールの中のハリストス.jpg
​洗礼について

 聖体礼儀を行い、聖体をすべての人に与えることが教会の役割である、とはいえすべての人が聖体をいただけるわけではありません。聖体を受けるためには正教の洗礼を受けた人間であることが求められます。信仰の無い者、信仰を異にする者が聖体を受けても利益にならず、かえって害になってしまうと教会は考えるからです。聖使徒パウェル(パウロ)はコリント人への手紙の中で「主のからだをわきまえないで飲み食いする者は、その飲み食いによって自分にさばきを招くからである(11:29)」と語っています。聖体を受けて神の国と永遠の生命を得ることを求める者は誰でもまず洗礼を受けてそれに備えなければなりません。

​ 洗礼とは至聖三者、すなわち三位一体の神である「父と子と聖神の名」において三度水に沈み(日本では頭から水をかける方法が多いですが、これも有効な洗礼です)、主の十字架上の死と三日目の復活にあずかる奉神礼です。洗礼は人生において、たった一度だけ行われます。洗礼の水に沈むことによって、私たちは罪と死に支配された歪んだ人間性とともに死に、ハリストスが復活したように、全く新しいものとして生まれ変わります。私たちはそのことを「ハリストスを着る」という言葉で表現します。

 洗礼が終わると直ちに聖神(聖霊)の印である聖膏(特別な香油)が体の各所に塗られ、聖神の賜物が神から与えられます。洗礼を受け聖神の印をつけられたものは、聖神によって生かされる「神の宮」となります。

 

 福音を伝え、洗礼を施すこともまた主イイスス・ハリストスの命令です(マタ28:19)。一人でも多くの人が神の国へ至る道を歩めるようにハリストスを述べ伝えること、これもまた教会の本質的な役割です。洗礼を受けるのに、人種、性別、身分、年齢、あらゆる障壁はありません。ただ切に神と神の救いを求める心がある限りすべての人に洗礼は開かれています。​正教徒として生きることに興味や関心がある方は、ぜひ教会の門を叩いてみてください。

よくよくあなたに言っておく。
だれでも、水と神(しん・霊)とから生れなければ、
神の国に入ることはできない。
イオアン(ヨハネ)3:5
​死者の祈り(パニヒダ)について

​ 私たち正教徒はしばしば死者のための祈りを行います。すでに永眠してしまった私たちの友や家族が神の国に入れられるように祈るのです。正教会は人間の救いについて、自分の努力や功徳の積み重ねの結果で神の国に入ることができる、とは考えません。人間は誰もが罪を犯します。まったく潔白で神の国にふさわしい人間は、人となった神、イイスス・ハリストス以外には存在しないのです。ですから、もし私たちが純粋に善行と悪行をもって審判されるのであれば、すべての人が有罪となり地獄へ行くことになってしまうでしょう。しかし神は人間を功罪で審判する方ではありません。もちろんすべての人間の功罪をご存じです。しかし神にとって何より大切なのは、神が人を愛しているということです。神は人を愛しているので、人となり、私たちのために神の国、永遠の生命に至る道筋を示してくださいました。それは神の愛の呼びかけに応え、洗礼を受け、聖体をいただくという道です。人間に求められているのは「神の愛、神の招きに応えること」だけなのです。

 しかしこれは生きている人間にしかできないことでもあります。死んでしまった人は自らの口で祈ることも、聖体を受けることもできません。だから私たちは死者のために祈ります。もはや言葉も息もない、愛する友や家族に代わって神に祈ります。おそらく友や家族たちにも罪があるでしょう。しかしそれに目をつむって、どうか神の国に入れてあげてほしい。これが私たちにとっての死者のための祈りです。私たちは神が人を愛しているのを知っているので、この祈りが聞き届けられることも知っています。そして最後の審判の日、私たちはともに復活し、全く新しいものとして再会の喜びを分かち合い、永遠の幸福に入れられる、ということに希望を置いているのです。

もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。
先のものが、すでに過ぎ去ったからである
イオアン(ヨハネ)の黙示録21:4
IMG_2633_edited.jpg
​毎月の奉神礼の予定

盛岡教会

 第1土曜日 17:00 前晩祷

 第2日曜日 10:00 聖体礼儀

 第4土曜日 17:00 前晩祷

 第4日曜日 10:00 聖体礼儀

 

北鹿教会

 第2土曜日 10:00 ​聖体礼儀

 

山田教会

 第3土曜日 16:00 前晩祷

 第3日曜日 10:00 聖体礼儀

 

遠野教会

 第1日曜日 10:00 聖体礼儀

 

岩谷堂教会

 第5日曜日 10:00 聖体礼儀

 

その他祭日にも聖体礼儀は行われます。

予定はしばしば変更になりますので、あらかじめこちらからご確認ください​​​​。

bottom of page