不来方から
不来方から
盛岡管轄区の教会報「不来方から」の一部の記事を抜粋して掲載します。
2月号
巻頭
「日は至り審判は既に門の側に在り、霊よ警醒せよ」
今年2月最後の日曜日、私たちは「断肉の主日」を迎え、大斎に向けた本格的な節制がいよいよ始まります。「断肉の主日」は「審判の主日」とも呼ばれます。それはこの日に、マトフェイによる福音書から、最後の審判についてのイイススの言葉が読まれるからです。審判の時、ハリストスが再びやってこられる時に、人々は「羊と山羊を分けるように」分けられます。片方の人々には天国が用意され、もう片方の人々は地獄へと追いやられます。恐ろしい審判の描写です。「すべての被造物は救われるのではないだろうか」と考えたニッサのグレゴリイやシリアのイサアクのような聖師父がいる一方で、私たちは「ある者は救われ、ある者は滅びる」という、この聖書に記されたイイススの恐るべき言葉から目をそらすこともできません。
この福音書の箇所(マトフェイ25:31-46)に先立つ部分で、イイススは「最後の時の到来」について語っています。24章において「この世の終わりがやがて来る」ということが語られ、それをどのように迎えるのかについていくつかのたとえ話がなされます。「主人の留守の間に、仕事をきちんと行う使用人とさぼっている使用人(24:45)」「花婿の到着を準備万端で待つ乙女と、準備をおろそかにして閉め出される乙女(25:1)」「主人から預かったお金をしっかり運用して増やした召使いと、失うことを恐れて何もしなかった召使い(25:14)」。いずれも神に喜ばれる人と喜ばれない人の対比が描かれ、そして「その時は突然来る」ということが強調されます。私たちが神の国の到来に備えるのに「早すぎる」ということはありません。「その時」がいつ来るのか「誰も知らされていない(24:36)」のですから、「またいつか気が向いたら準備しよう」では、もしかしたら手遅れになってしまうのです。あるいは世界の終末が来なくてもあなたの終末、すなわち「死」は次の瞬間に訪れるかもしれません!常に問われているのは「今」です。
その切羽詰まった「今」に何をなすべきか、ということがこの主日の福音で読まれる箇所に書いてあるのです。その答えは隣人愛です。私たちキリスト者にとって隣人愛は単なる倫理や道徳ではありません。愛はむしろ人間の本質です。神は人間をご自身によく似たものとして造られました。神は至聖三者の三位一体であり、父と子と聖神の三者は離れがたく愛において一致しています。人間存在もまたその似姿として愛の交わりを本質として受け継いでいます。また全ての人間、キリスト者もそうでない人も、男も女も、日本人も外国人も、家族も他人も、友人も嫌いな人も、善人も悪人も全ての人間が神の似姿を刻印された神によく似た存在です。罪によっていかにその刻印が汚れ、かすれていても、依然人間は神の肖像であり続けます。王の肖像を汚す者は王によって罰せられます。人間を汚す者は神を汚す者です。人間を尊む者は神を尊む者です。隣人愛と神への愛は深く結びついています。私たちは隣人を愛することを通じて神を愛し、神はそれを喜ばれます。そして愛において神に似たものとなった人は、もはや救いの中にいるともいえます。私たちにとっての救いとは、単なる試験の合否のような結果発表によってもたらされるのではなく、神に似ていく過程を生きているかどうかという「今」の力動的な前進の中に見出されるものだからです。
これから迎える斎は決して食事の節制だけをする期間ではありません。自分という人間の在り方をよく振り返り、人間の本質的な善を実現できているかどうか、そこからいかに遠く離れているのかを思い知る期間です。そして人間の本質的な善とは愛です。それは人を尊敬することです。大切に扱うことです。傷つけないことです。安易に決めつけないことです。相手に落ち度があっても寛容に赦すことです。愛のあり方をすべて書き出すことはできませんが、大切なのは自分本位を離れ、本当の意味で相手のためを思うことです(ただしこれはいつも難しい問題です。相手のことを思うという「思い込み」で、実は自分本位だったということも多々あるからです。だから私たちはいつも慎重に考え、悩み続けなければなりません)。
それを始めるのは「いつか」ではありません。「今」です。なぜならば終末は次の瞬間に迫っているかもしれないからです。「今」を大切に。
エッセイ
「鬼舞辻無惨」
大人気マンガ「鬼滅の刃」は炭治郎という少年が、妹を救うために鬼と戦うというお話です。その炭次郎が倒すべき、諸悪の根源である鬼の首領が「鬼舞辻無惨」という鬼です。鬼舞辻無惨はすべての鬼の始祖であり、この作品の世界に存在する鬼はすべて無惨によって人間から鬼に変えられてしまった人々なのです。無惨は美しく、恐ろしいほどの強さを持ちますが、しかし彼には太陽の光に当たると体が燃え尽きてしまうという弱点があります。無惨はその弱点を克服し、本当の意味で完全無敵な存在となるために、配下の鬼を生み出し、数々の悪行を重ねています。
この鬼舞辻無惨という人物は「悪」という観点から見たときに実に興味深いキャラクターです。彼にはまったく「愛」がありません。より正確に言えば、彼の「愛」は徹頭徹尾自分に向けられ、そこには肥大した自己愛しか存在しないのです。彼は自分の目的のために、たくさんの不幸な人間たちを鬼に作り変え、彼らを呪いで縛り付けながら不死の方法を探らせます。しかし無惨は自分の血を与えた配下の鬼たちを全く愛していません。仲間だとも思っていません。自分のために働く奴隷であり、道具だとしか思っていないのです。主人公の炭治郎が所属する「鬼殺隊」によって、配下の鬼がどれだけ斬られようと、その殺された鬼たちに対する憐みの心はひとかけらもなく、ただ「なんと役に立たないのだ」という怒りと軽蔑しか持ちません。「役に立たない鬼だ」と思えば何のためらいもなく殺してしまいます。鬼舞辻無惨の世界には「自分」と「自分の道具」しか存在しないのです。炭治郎が「妹を救うため」「仲間のため」に戦うのとは対照的です。
また鬼舞辻無惨はしばしば人間を鬼になるよう勧誘しますが、その時彼は人間の自己愛に甘く囁きかけます。「もっと強くなりたいだろう?」「病気で死にたくないだろう?」人間の弱い心に付け込み、鬼になることで強大な力を得て自分の望みを実現せよとそそのかします。また人を恨む気持ちや、憎む気持ちを肯定し、鬼の力でそのような相手に復讐すればいいのだ、と誘惑します。無惨の誘いに乗った人間は鬼となり、とてつもない力を振るいますが、その心は醜く歪み、やがて人間だった時の記憶も、自分がなぜ鬼になったのかもすっかり忘れてしまいます。
このように「鬼滅の刃」における鬼舞辻無惨のキャラクター造形は、とても優れた「悪」のモデルだと言えます。「愛の欠如」「肥大した自己愛」は「悪」であり、「悪」は人間の弱い心に付け込み、「悪」をますます増幅させるという構造は、キリスト教的に見ても大変説得力のある描写です。
以下ネタバレなのですが…。鬼舞辻無惨は最期、鬼殺隊に敗れ滅びゆく中で、ついに自分の孤独を知ります。誰も自分の思いを継いでくれないことに気付き、最後の力で炭治郎を「鬼になって私の思いを継いでくれ」と誘惑します。しかしこれもまた彼の手前勝手な自己愛です。炭治郎に拒絶された無惨は、ひとり地獄の孤独の中へと沈んでいくのです。