​不来方から

​不来方から

盛岡管轄区の教会報「不来方から」の一部の記事を抜粋して掲載します。

2月号

​巻頭

「主宰よ、今爾の言に従いて、

爾の僕を赦し、安然として去らしむべし」

 2月15日、私たちは「主の迎接祭」を祝います。この祭日では出産後40日目のお祝いのためにエルサレムの神殿へと詣でた生神女マリヤ、主の養父であるイオシフ、そして幼子イイススがシメオンという老翁に出会ったことを記憶します。シメオンは幼子を腕に抱き、ついに待ち望んでいた時が来たことを喜びます。彼は神から、神の遣わした救世主と出会うまで死なないというお告げを受け、この日まで200年以上の長きにわたって生き続けてきたと教会の伝統は伝えています。救世主と出会ったシメオンの喜びが彼の口からあふれ出てきました。

 「主よ、今こそ、あなたはみ言葉のとおり、この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしの目が今あなたの救を見たのですから。この救はあなたが万民のまえにお備えになったもので、異邦人を照す啓示の光、み民イスラエルの栄光であります(ルカ2:29-32)」

 彼の人生は救世主を「待つ」ということに捧げられていました。シメオンの役割はハリストスを待ち望み、そしてついに出会うということでした。エルサレムの神殿でハリストスを腕に抱き取った時、彼の役割は全うされ、そして彼はもはや何の心配もせずに、この世の生命を神に返すことを喜びをもって受け入れました。彼のあまりに長い生涯は、すべてこの時のためにあったからです。

 これは決して私たちにも無縁のことではありません。私たちは200年も生きることはないかもしれませんが、しかしそれでもその人生の目的、本当の意味とは何かといえば、やはり救世主と出会うこと、常にイイススの傍らにいるということだからです。私たち人間は自らの罪深さのゆえに神から離れて生きています。私たちはその両手を神を抱きとめるためではなく、神を拒絶し追い払うために使っていることもあるかもしれません。そして神を離れているからこそ、死というものの先の見えない恐ろしさにおびえ、恐れのゆえにさらに罪を重ねてしまうのです。

 しかし幼子イイススに出会い、彼を救世主として確信したシメオンにとって死はもはや恐怖ではありませんでした。彼は自分の人生の目的を達成し、今彼の救いをその腕の中に収めたからです。神と共におり、救いを確かに知った人間にとっては、この世の生命が終わることは、決して滅びではなく、むしろ永遠の栄光、無限の福楽への入り口です。

 私たち普通の人間は、キリスト者と言えど、ある時は神を意識していても、でもある時はすっかり忘れていたり、突然隣人愛に目覚めたり、でもすぐに利己的になったりして、いつもあちらこちらにブレながら生きているかもしれません。それでも人生最後の時に、自分の傍らにはいつもイイスス・ハリストスがいたことを知り、復活と永遠の生命の光を見通して、「あなたのしもべを心安らかに去らせてくださいます」と、老シメオンのように言えたらどんなにか素晴らしいでしょうか。この迎接祭の機会に、私たちの人生の目的は何なのか、私たちは救世主を待ち望み、そして救世主とともにいることを無上の喜びとできているのか、改めて考えてみてもいいかもしれませんね。

エッセイ
​「推しメン」

 アイドルファンの用語に「推しメン」という言葉があります。アイドルグループの中で誰か特に好きなメンバーを応援することを「推す」と呼び、その推しているメンバーのことを「推しメン」というそうです。今や、アイドルだけでなく、スポーツチームの選手やアニメのキャラクター、あるいは歴史上の人物まで幅広く、自分の「推し」を強く意識していくのが最近のスタイルみたいですね。(ちなみにグループ全体を応援して、全員頑張れ、というスタンスは「箱推し」というそうです)

 さて、正教会の聖人もこの感覚に少し似ている時があります。例えば「亜使徒ニーナ」はもちろん世界中でメジャーな聖人ですが、特にジョージア(グルジア)では正教会を伝えてくれた大聖人として強く「推さ」れています。ロシアだったら、ラドネジのセルギイ、サーロフのセラフィムなどの心優しい修道聖人や、救国の英雄である「アレクサンドル・ネフスキイ」などは際立った人気があると言えるでしょう。竜退治の聖大致命者ゲオルギイやミラリキヤの聖ニコライなどは世界中に(正教だけでなくカトリックや国教会でも)ファンがいますし、シリアのイサアクや今月紹介したシリアのエフレムなどをじっくり推している人たちもいます。神学校でお世話になったある神父様は財布のカードケースに尊敬する聖人のイコンを入れて、たまに眺めているとおっしゃっていました。まさに推しメンのブロマイド。

 私たちが聖人に触れるとき、その人について「勉強する」というよりも、もしかしたらこの「推し」ていく感覚のほうが重要なのかもしれません。好きなアイドルがいたら、Wikipediaなどでプロフィールを調べたりして、おのずと知識が増えていったりします。そこには無理して勉強している感覚はありません。同じように私たちも好きな聖人を見つけて、その人みたいになりたい!もっと知りたい!という気持ちを素直に表現してもいいのではないかと思います。まずは自分の聖名の由来になった聖人について「推し」てみてはいかがでしょう。

(ちなみに私は数年前にロシアの至聖三者セルギイ修道院を訪問して、そこでラドネジの聖セルギイの不朽体に接吻して以来、セルギイは推しメンです。やっぱり「会える聖人」は強い印象を与えます。またわたしの「ピーメン」は有名な砂漠の聖大ピーメン「じゃない方の」ピーメンなのですが、その不朽体はウクライナ、キエフの洞窟修道院に今もあるそうで、いつか会いに行くのが夢ですね)