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​不来方から

​不来方から

盛岡管轄区の教会報「不来方から」の一部の記事を抜粋して掲載します。

10月号
​巻頭
「主、彼を見て憫みて彼に謂えり、哭くなかれ」

 キリスト者の信仰の中心にある事柄、私たちの希望の本質とは何かと言えば、それは「復活」であり「永遠の生命」です。人間が誰しも(あるいは生きるものすべてが)死を免れ得ないことを私たちは知っています。ある人々はそれを仕方のないこととして諦め、ある人々は死の別離の悲しさを幻影として退けます。死は避けられないものなのだから仕方ないという諦めで、死の悲しさや理不尽さを薄めながら生きているのが人間なのかもしれません。しかしハリストスは違います。第20主日に読まれる福音の読みの中で、主は町を過ぎゆく葬列に出会います。この葬列の喪主はある未亡人であり、棺の中にいるのは彼女のたった一人の息子でした。イイススはこの光景を見て深い憐みの心を持たれました。この未亡人は夫を亡くして一人で息子を育て上げました。彼女にとってこの息子は残された唯一の希望、唯一の喜びです。その一人息子が死によって取り去られ、もはや手元に何の喜びも残っていない彼女の心は、もしかしたら悲しみを通り越して虚無であったかもしれません。この葬列は人間にとっての死の悲しさ、怖さ、虚しさを象徴しています。これは家族に囲まれて大往生したおじいちゃんおばあちゃんの死でもなく、人々のために華々しく散った英雄の死でもなく、人間のささやかな、それでいて代えようもない大きな希望と喜びを奪い去る「死」のもっとも残酷な姿です。死に納得できる物語を与え、その恐ろしさを覆い隠す甘く優しいヴェールを取り払った後に残る、死の強烈な喪失感、悲愴、苦悶がこの未亡人に襲い掛かったのです。だからイイススはこの女を憐れみ同情しました。あなたはなんという恐ろしい悲しみに晒されているのか、何と憐れなのだ、と。このイイススの憐みはこの女を通じてすべての人々にも向けられているものです。人間すべてが死を免れず、失われてしまうことを主は深く憐れんでいます。


 イイススは言います。「泣いてはならない」。イイススは死を悲しむなと言います。主は棺の中の死んだ若者に呼びかけました。「起きよ」。するとその若者は死から甦って起き上がりました。主は未亡人の悲しみを癒すためだけに彼に再び命を与えたわけではありません。今日の死を数十年後に延期するだけの一時しのぎのために復活の奇跡を行ったのではないのです。むしろこの出来事は、この未亡人のためだけではなく、これを目撃した(あるいは聖書を読んだ)全ての人々のために行われたと言えるでしょう。主、ハリストスは神であり死をはるかに凌駕する方であるということを人々に示すために、この若者は死から生き返されました。ハリストスは生命を与える主であり、ハリストスとともにある者は永遠の生命を得るという希望を示すための奇跡です。だからイイススは言ったのです。「泣いてはならない」。


 主とともに生きる者にとって、死はもはやハリストスに屈服させられた敗者です。たとえ私たちの存在を脅かすように見えても、それは一時的なかりそめの恐怖です。なぜならば私たちには、たとえ死者となってもハリストスがともにいて下さるからです。一時的に死に取り込まれたように見えても、神が定めた時におよんで、私たちは再び生命を与えられ、永遠を生きる者として復活します。これを信仰の核心として生きるキリスト者に主の言葉が響くでしょう。「泣いてはならない」と。

​エッセイ
​「手のひらの上」

 中国の古典小説に「西遊記」というものがあります。孫悟空という猿が三蔵法師のお供をして仏典を受け取りに天竺まで旅をするというお話です。その中に私が子供の頃に読んで以来、ずっと強烈なインパクトを覚え続けるエピソードがあります。


 孫悟空は神秘的な力で岩から生まれた猿でしたが、修行を積みとてつもない法力を手に入れました。斉天大聖という大層な名を名乗った悟空は配下の猿たちを率いて天界に攻め込みます。天界の住人達もそれに応戦しますが、妖術や仙術を駆使して戦う悟空の前に成す術もありません。そこで西方浄土に住む釈迦如来が呼ばれ、お釈迦様は悟空と対面することになります。お釈迦様が悟空に何を望むかと聞くと、悟空は「下界は自分には狭すぎるから、今度は天界の王になる」と傲岸不遜にも答えます。お釈迦様は笑って言いました。「では私の手のひらから飛び出すことができれば、悟空に王を譲るように天帝に話してあげよう」。悟空は「そんな事、わけもない」と空飛ぶ筋斗雲に飛び乗りあっという間に姿を消しました。何百万里も飛んでいくと大きな五つの山が見えてきて、悟空は「釈迦の手のひらどころか天界の果てまで来てしまったぞ。さすがは俺だ。この山に俺様が来たという証拠を残してやろう」と山に「斉天大聖参上」と大書し、さらにおしっこまで引っかけてお釈迦様の所に帰ってきました。「俺は世界の果てまで見てきたぞ。連れて行ってその証拠を見せてやる」という悟空に、お釈迦様は「それには及ばないよ」と言います。お釈迦様が手のひらを開くと、お釈迦様の指には「斉天大聖参上」という文字が書かれ、猿のおしっこがかかっています。悟空が天の果てと思ったその場所はお釈迦様の手のひらの上に過ぎなかったのです。驚愕した悟空は、たちまちお釈迦様に懲らしめられ、巨大な山の下に閉じ込められてしまいました。

 これは西遊記でもかなり序盤(と言ってもそこまでもかなり長いのですが)のエピソードで、「手のひらの上」という慣用句の語源にもなった挿話です。とてつもない力を持ったはずの者が、実のところもっと偉大な力の前には何者でもない、ということを娯楽小説らしく大変面白く書いているものだと感心します。このお話の登場人物はお釈迦様と孫悟空ですが、そのまま神と人間(という猿)に置き換えても成立するものです。私たちがいかに科学や文明を駆使して地球上の支配者のように振舞っても、きっと神から見れば自分の手のひらのしわ一つの中でふんぞり返っているようにしか見えないのかもしれません。そのことに妙に愉快な安心を感じてしまうのは私たちがキリスト者だからでしょうか。私たちの強さも弱さも、喜びも苦悩も、みな手のひらの上の出来事で、しかも神はそれをすべて見通していると思うと、自分が生きていることがふっと楽になるような気さえします。私たちが住まう「手のひら」の主(あるじ)に目を向けて、その偉大さに驚嘆したり、自分の小ささに愉快になってみたりして生きるのは素敵な生き方だと思うのですが、どうでしょうか。

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