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​不来方から

​不来方から

盛岡管轄区の教会報「不来方から」の一部の記事を抜粋して掲載します。

4月号

​巻頭

今日、爾復活せし者とともに起く​

 4月19日、私たちは復活祭を祝います。信者たちは互いに「ハリストス復活!」「実に復活!」と挨拶を交わし、主の復活の喜びを表します。ではなぜ私たちにとって「復活」が喜ばしいものなのでしょうか。なぜ教会は二千年間にわたってこの喜びを絶やさずに祝い続けてきたのでしょうか。

 私たち人間は生まれた瞬間から死へのカウントダウンが始まります。人によって様々な人生を過ごしますが、しかし皆やがて死にます。これが私たちの知っている人間の「当たり前」の姿です。死は「当たり前」の顔をして私たち人間を、そして世界を支配しています。しかし、それは実は人間の神への離反が招いた結果であり、「当たり前」のことなどではない、と教会は考えます。アダムが神に背き善悪の知識の実を食べたこと、すなわち神の恵みの外側に自ら飛び出し、神を不要なものとして人間のエゴイズムのみで生きていこうとしたときに、人間を取り巻く世界のありようは大きく変わってしまいました。神の恵みのうちに不死や永遠の賜物を与えられるはずだった人間は、もはや神との関りを失い、その材料である土に還るだけの存在に成り果ててしまいます。死とは人間の罪がこの世に招き入れた不自然なもの、「当たり前ではない」ものなのです。

 そして人間をこの罪と死の支配から救うために、神自らが人間となってこの世界にやって来られた方が、私たちの主イイスス・ハリストスです。イイススは完全な神であり、完全な人間です。完全な人間なので、私たちと同じように赤ん坊として生まれ、成長し、大人になりました。お腹もすくし、悪魔からの誘惑も受けたし、喜んだり怒ったり悲しんだりしました。神である方ご自身が、人間として生きることで人間全体を清めていきました。そして人間にとっての「当たり前」である「死」もまた清められなければなりませんでした。イイススは人間の清めの集大成として死ななければならなかったのです。イイススは死にました。罪の無い方が罪人として、最も惨たらしい十字架の死を受け入れました。十字架上の死はハリストスの、神の敗北のように見えました。しかしそれは敗北ではなく勝利でした。ハリストスは死ぬことで、死の内側から生命を満たしました。神である方が死んだことによって、人間の死もまた清められたのです。そして人間の滅び、行きつく先の終着点であった死を突破し、新たな道を開いたのです。それは復活と永遠の生命に至る道です。人間であるお方、ハリストスがその先駆けとなって復活と新しい永遠の生命を私たちに示しました。ハリストスは人間の人生すべてを自らのものとして、それらを清めました。しかしそれだけではなく、今度は人間の先を歩き、ご自身に起こったすべてのこと、すなわち復活、昇天、神の右に座すことを人間の可能性として開きました。

 ハリストスが死に、そして復活したということは「イイスス・ハリストス」という一人の人物の出来事に留まりません。私たち人間全体に関る出来事なのです。ハリストスによって私たちの死は突破されました。私たち人間はもはや死によって滅ぼされる存在ではないのです。神と共に永遠の生きる可能性を回復された存在なのです。私たちはパスハのカノンの中でこのように主の復活を讃美します。「ハリストスよ、私は昨日あなたとともに葬られた。今日復活したあなたとともに起きる。昨日あなたとともに十字架に釘打たれた。救世主よ、あなたの国であなたとともに、私にも光栄を受けさせてください」(第三歌頌)。

 ハリストスの復活は私たち自身の復活です。神は私たちとともにある者として私たちとともに死に、そして私たちは神とともにある者として復活の生命に入れられました。これこそが復活祭の喜びなのです。復活祭が喜ばしいのは、私たち自身の復活の喜びだからなのです。この喜びを私たちは復活祭の夜、ともに声を大にして叫ぼうではありませんか。「ハリストス復活!」と。

​※盛岡教会の復活祭は4月19日(日)の朝に行われることになりました。また、新型コロナ流行の影響で、祈祷は盛岡教会の信徒のみ参加可とさせていただきます。ご了承ください。

エッセイ
​予告編

 皆さんは映画はお好きですか?私もたまに映画館で映画を見ることがあるのですが、本編が始まる前に予告編の時間というのがだいたいありますよね。映画の興味深いシーンを切り貼りして、「お?どういう展開なんだ?」と引き込まれたところで「今春公開」「全世界が泣いた」「Coming soon…」。おいおいどうなるんだよ、とそんなに興味の無かった映画でも見たくなったりするから上手くできているものです。

 あるいは三部作映画の第二部、って言ったらピンとくるでしょうか。第一部は気持ちよく終わり、第二部で新たなピンチが発覚、主人公が窮地に追い込まれたところで「to be continued」。喩えていうならタイムマシン・デロリアンに置いてきぼりにされたマーティ・マクフライであり、ダース・ヴェイダーとの因縁を告げられ片腕を切り落とされたルーク・スカイウォーカーです。第二部がピンチで終わるからこそ第三部の大団円がカタルシスになるわけです。

 さて、何が言いたいかといいますと、私たちにとって受難週間は第二部のようなものだ、ということです。ハリストスが華々しくエルサレムに入城して「第一部・完」。祭司たちの陰謀と弟子の裏切り、民衆は掌を返しついに十字架にかけられてしまったハリストス!もう希望は無いのか!というところで終わる「第二部」。そしてさめざめと泣く女たち、墓は大きな岩でふさがれる。暗闇の中で骨に預言する預言者、うごめく骨、という「第三部予告編」をちらりと見せて「Coming soon」です。

 教会のお祈りをエンタメに喩えて不謹慎だ、という向きもあるかもしれませんが、逆に言えば正教会の奉神礼はそれほどまでに「面白く」「エキサイティング」なのです。どうぞ皆さん、今年はぜひ受難週のお祈りから参加して「この瞬間を見逃すな!」「全世界で2000年間大ヒット!」「あなたは今夜生まれ変わる」そんな体験してみませんか?

 「Coming soon!!」

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