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​不来方から

​不来方から

盛岡管轄区の教会報「不来方から」の一部の記事を抜粋して掲載します。

5月号
​巻頭
「ハリストスよ、天使の会は爾が肉体とともに昇りしを見て驚きて、爾の聖なる昇天を讃め歌えり」

 「ハリストスは神が人となった方」というのはキリスト教信仰の中核です。ではなぜ神が人となったのかと言えば、それは人を根本から救うためでした。そして人とは肉体と霊を持つ存在であり、本来その二つは分離させられるものではありません。人間は肉体だけ、霊だけでは不自然であり、両方備えてこそ人間です。昇天においてハリストスは神として天に昇っていっただけでなく、霊と肉体を両方備えた完全な人間としても昇っていくことで人間に救いの道を開きました。


 主の復活を伝える聖書の記述では、復活のハリストスが肉体を持つ存在であることが強調されています。イイススは霊魂だけの存在(幽霊のような)としてよみがえったわけではないのです。十字架刑の傷跡が残り、フォマにそれを触れさせ(イオアン20:27)、弟子たちの目の前で魚を食べる(ルカ24:42-43)ことで、彼らが出会っているイイススが確かに肉体を持った人間として完全に復活したことをお示しになりました。一方でその「復活の人間性」が私たちの想像をはるかに超えたものであることも同時に示されます。携香女や旅の途中の二人の弟子たちは復活の主に出会ってもそれが誰か最初は分かりませんでした(イオアン20:14、ルカ24:15-16)。また閉め切ったはずの部屋に突然現れたり(イオアン20:19)、あるいは複数の弟子たちに同時に現れたりしました(コリンフ前15:6)。


 神の子は私たちとまったく同じ人間となり、この世の生と死をご自身のものとして引き受けることによって、私たちすべての人間の生と死に寄り添い、慰めを与え、人間全体を浄められました。お腹がすくことも、悪魔に誘惑されることも、蔑まれることも、傷つき苦しむことも、そして孤独と絶望のうちに死ぬことも、人間の一人としてご自身で受け取られたのです。私たちの苦しみは私たちだけが孤独に抱えるものではなく、ハリストスがともに寄り添ってくれるものとなりました。そんなハリストスが死から復活し、まったく新しいものとして、しかし依然肉体と霊を備えた人間としてそのまま天に昇っていったことは、今度は私たち人間がそのようなものになるという道筋を付けたということです。もちろん人間は弱く自力、独力でその道を歩むことはできません。しかし主はかつて「慰める者=聖神」というお方を派遣するということを約束されていました(イオアン14:16)。私たちは聖神の導きの中に、私たちの目の前から消え去ってしまったかのように見える(むしろ現代を生きる私たちにとっては最初から目の前にいない)イイスス・ハリストスと出会うことができます。出会うだけでなく洗礼、領聖を通じ一致することができます。ハリストスと一致した私たちは、ハリストスの復活とハリストスが示したまったく新しい完全な人間性に一致し、そして人間としての昇天と神の懐に入れられる恩恵にさえも与れるようになるのです。復活祭、復活祭期、昇天祭、五旬祭(聖神降臨祭)までの50日間の喜びは、復活のハリストスのこのまったく新しい人間の在り方に一致できる喜びに他ならないのです。

​エッセイ
​「わかる」

 最近解剖学者の養老孟司さんの「ものがわかるということ(祥伝社)」という本を読みました。本書の中で著者は解剖学者の立場から、近代以降の人間が「わかる」ということにおいて脳の機能ばかりを偏重し、身体の他の部分を軽視しているのではないかと警鐘を鳴らしています。その中で私が特に感銘を受けたのが、人間は外部に何か発信するときに筋肉を通じてしかそれを行うことができないという指摘でした。脳で考えたことも筋肉を通さなければ、声にも出せないし、目線ひとつだって動かすことができないというのです。また脳で考えて「わかる」つもりのことと、実際に目で見て手で触れて「わかる」ことには差があることを、自身の解剖の体験を通じて語っています。確かに解剖図をいくら見てみても、実際にメスを使って筋肉と骨、腱や神経を丁寧に外していく体験で知ることには遠く及ばないような気がします。


 ところでこの本が面白かったのは、読み手である私が大斎の真っ最中にいたからかもしれません。正教の大斎の祈祷ではいつにも増して筋肉でお祈りをします。十字を画き、首を垂れ、床に手と膝をついて伏拝し、筋肉を酷使しながら祈祷は進みます。私たちは脳だけでなく(もちろん脳も肉体の一部ですが)肉体全体を用いて神に呼びかけているのです。大斎も終盤に差し掛かると腕や腿の筋肉がミシミシと痛み、身体が重くなってくるのを感じます。一方で伏拝の仕方などもよりスムーズな動きが会得されたりして「ああ、背筋で体を起こすと楽なんだ」などと思ったりもします。まさに肉体の祈り。そして肉や卵を節制することで起きる自分の内部の変化だってやってみなければ分からないものです。すぐお腹が減るという体験、その空腹に衝き動かされるような「食欲」の感覚の体験。理屈で分かることではなく肉体で分かることこそが私たちの血となり肉となっていきます。そもそも日常生活の中で「土下座」をしたことなんて無い人の方が多いでしょう。「私たちは罪人で、主がその罪を負ってくださった」とテキストで100回勉強するよりも、一回全身全霊で「神よ、我罪人を憐れみたまえ」と神に土下座してみる体験の方がはるかに実り多いのではないでしょうか。


 この体験の積み重ねの上に迎える復活祭の喜びも、これもまた「体験しなければ分からない」ことかもしれません。もう膝を屈めず、俯かず、まっすぐ背筋を伸ばし胸を張って祈る姿に喜びがあります。腹の底から「ハリストス復活!」「実に復活!」と呼び交わす声の震動が聖堂全体を歓喜に満たします。聖堂は大斎の黒色から赤や白に彩られ、いつもより高級な乳香の香りが漂います。お祈りが終わって皆で囲む食卓の楽しさ、肉の一片のうまさ、クリーチの甘さ、食べ物が体中に染み込んでいくような心地よさです。


 私たちは肉体を持つ存在として、神との関わりを表現する体、苦しさも喜びも体験することができる体をもっと大切に扱っていかなければならないのかもしれません。身体を通して得られることをじっくりと嚙みしめるように味わい、身体を通して丁寧に祈りを表現する。正教徒として忘れてはならないことではないでしょうか。

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