​不来方から

​不来方から

盛岡管轄区の教会報「不来方から」の一部の記事を抜粋して掲載します。

9月号
​巻頭
生神童貞女よ、爾の誕生は全世界に歓喜を知らせたり、
けだし爾より義の日たるハリストス我が神は輝けり」

 生神女マリヤを讃えるとき、教会では「常にさいわいにして」という聖歌を歌います。人となった私たちの神である救世主イイススを生んだあなたは「幸いな方」と讃め称えられるにふさわしい、という意味の歌です。正教会において生神女は人間の理想的な姿として語られます。マリヤは神の前に全く罪がなく、謙遜で従順であり、神からの求めに「分かりました、おっしゃる通りになりますように」と、自らの存在を神のために捧げました。生神女マリヤがそのような方であったからこそ、神の子は人となり、救いの業をなすことができたのです。マリヤは神に深く愛された、祝福された女でした。

 しかし一方で、そんなマリヤは特別にどこかから現れた人ではありません。マリヤにも両親がおり、その両親にも先祖がおり、それを辿ればダヴィド王の家(正教会の伝統の中ではマリヤはダヴィドの氏族とされています)、さらにイヤコフ、イサアク、アウラアムの一族に連なるものでした。それは私たちが突然無から生まれたのではなく、親の親のそのまた親から連綿とつながる流れの中で生まれたのと同じことです。

 聖書によれば人間の歴史は罪の歴史です。エワが蛇にそそのかされて禁じられた木の実を食べ、さらにエワに誘われたアダムが食べ、その罪の結果人間はエデンの外に追い出されました。アダムとエワの子、カインが弟アウェリを殺し、カインの子孫はさらに大きな罪を重ねていきました。マリヤの先祖であるダヴィド王も、美しい人妻を欲したために、その手を血に染めました。罪を悔いるダヴィド王が歌ったとされる50聖詠の中には「我が母は罪において我を生めり」という言葉があります。私たちは「罪の系譜」の中に生まれ、罪人となることを運命づけられているようなものだと嘆いているのです。

 それでもなお、人間には同時に尊さ、気高さ、善さがあります。罪に陥りながらも、神の喜びを求め、神を愛し、隣人を大切にする心を発揮した偉人たちのことも聖書には書かれています。また、悪や罪に敢然と立ち向かった預言者たちもいます。さきほどのダヴィド王も、重大な罪人であると同時に、神を愛する偉大な詩人であり、民に平和を与えた大いなる聖王でした。人間は罪にまみれつつも、善き心を発揮し、罪と悔い改めの間で悶え苦しみながらも、神に救いと憐みを求め続けてきました。

 そのような人間の歴史の末に生まれた結晶のような赤ん坊が、のちに神を生む者となるマリヤという幼子です。マリヤの両親であるイオアキムとアンナは、老年になるまで子供のできなかった夫婦でしたが、神への祈りが通じマリヤが与えられました。だからこそ、この赤ちゃんが神様から与えられた特別な賜物であるということを知って、本当に大切に育てたのです。この子が罪に触れないようにと、極めて注意深く育て、天使たちもまたこの赤ちゃんを大切に守り育んだと伝承は伝えています。

 生神女は最初から罪と断絶した「幸いなもの」として生まれてきたわけではありません。むしろそれまでの人間の罪と悔い改めのせめぎあいの歴史の末に生まれてきたといえるでしょう。そして両親の愛情によって「祝福」されるにふさわしい者として育てられました。そのマリヤから私たちの救世主であるハリストスが生まれるということは、すなわちイイススが人間のすべての歴史を背負って生まれてきてくれたのだ、ということを私たちは憶えておかなければなりません。生神女は私たちと何の関わりもない特別な聖者なのではなく、私たちと同じ地平に生まれた同じ人間です。同じ人間として、私たちもまた生神女のように「幸いな者」となる希望と努力を忘れてはならないからです。

エッセイ
​「奇跡」

 藤子・F・不二雄はパーマンやドラえもんなどで有名な大マンガ家ですが、「SF短編集」という少し大人向きのユーモアマンガも描いています。その中のひとつをご紹介。

 主人公は木関(きせき)という男。一見平凡なサラリーマンなのですが、彼の人生ではしばしば不思議な出来事が起こります。同僚の頭痛におまじないをしたら治ったり、ひょんなことで意中の人と結婚できたり。木関は自分がおかしいのではないかと心配になり、友人の郷里(ごうり)に相談しますが、郷里は「そんなことは科学的に説明がつくか、あるいは偶然だ。奇跡ってのはキリストが湖の上を歩くみたいなことを言うんだぜ」とあしらいます。首をかしげる木関ですが、最終的に彼は「オレは普通の人間だ、奇跡なんてない。最高の気分だ」と結論付け、今までになく晴れやかな気持ちになります。それを天から眺めていた神さまは、「久々にやってみたが、最近は奇跡の通じない世の中になってしまった」と嘆きます。木関の身に起きていたことは本当に神の奇跡だったのです。「信仰の薄い者どもよ」という神のセリフでこのエピソードは終わります。

 「奇跡」というのは聖書だけでなく、聖人のエピソードにもしばしば登場します。それらの「奇跡」と私たちの実際の生活というのはなかなか結び付きません。私たちは、たちどころに病人を癒す業も、盲人の目を開くのも、まして湖の上を歩く人も見たことが無いからです。奇跡なんてのは、実はすべて合理的に説明がつくのだ、と主張する人もいます。

 しかし私は奇跡は実は私たちの日常にあふれている、と感じています。それは客観的に見たらほんの偶然の産物だったり、あるいは科学的に十分説明可能なことかもしれません。しかし「このタイミングで」「この状況で」「こんなことが起きる」、という「出来過ぎ」という体験はしばしばありました。奇跡は「超常現象」だけではなく、むしろ偶然の中に隠された「神の計らいの表現」としても起きているのではないでしょうか。ただの偶然で片が付く話かもしれないけれども、「こうしておきなさい」という神の言葉によらない語りかけ、それが「奇跡」なのかなぁ、と思うのです。病気になったにもかかわらず、神様のおかげで最悪の結果にならずに済んだ、と喜ぶ人もいます。他人にとっては「偶然」で「何の不思議もない」ことかもしれないけれど、本人にとっては神の示した「私の奇跡」であるということは大いにあるのです。奇跡は「あるか、ないか」より「気付くか、気付かないか」の方が重要なのかもしれません。

 このマンガのオチのように、「いろいろやってみたけれど、奇跡と分かってもらえないなぁ」と神さまをガッカリさせない感受性をいつも持っていたいものです。