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​不来方から

​不来方から

盛岡管轄区の教会報「不来方から」の一部の記事を抜粋して掲載します。

7月号

​巻頭

「その声は全地に伝わり、その言葉は地の果てに至る」

 私たちは毎年7月12日に「ペトル・パウェル祭」を祝います。この日にはハリストスの十二使徒であった聖使徒ペトル(ペテロ)と、初代教会において異邦人に向けて精力的な伝道を行った聖使徒パウェル(パウロ)が記憶されます。

 正教会はこの二人に限らず、ハリストスの福音を述べ伝えることを使命とした主の弟子、「使徒」たちを大変尊敬し重要視しています。ハリストスは復活の後、弟子たちにこう言いました。「あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖神との名によって、彼らに洗礼を施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えなさい(マトフェイ28:19-20)」。また五旬祭において祝われたように、使徒たちはハリストスによって遣された神・聖神を受け、福音を伝えるために必要な特別な恵みを与えられました。使徒たちはハリストスの命令を守り、聖神の恵みの内に世界中にハリストスの福音を伝えました。


 彼らの活躍によりハリストスの福音を信じる者はますます増え、やがて使徒たちは自分たちの役割と神に与えられた恩寵を、最初の主教たちに継承しました。その主教たちはさらに次の主教たちにそれを伝えました。またその役割と恩寵の一部を与え司祭や輔祭とし、教会の助け手としました。ですから今の私たちの所属する教会も、元をたどっていけばいずれ使徒たちに繋がり、そしてハリストスにまでさかのぼれます。今日私たちが教会に集い、祈り、そしてご聖体を受けることができるのは、使徒たちに与えられた役割と恩寵が、今に至るまで教会に連綿と伝えられているからなのです。

 さて、教会の様々な祈りや奉事も、ハリストスの命令を使徒たち(と、その後継者たち)が、聖神の恵みの中に伝えて来たからこそ今日まで保持されています。教会において「機密」と呼ばれる祈りを行う権威と恩寵は、ハリストスから使徒へ、使徒から主教へと伝えられてきました。洗礼や聖体機密などは、私たちをよみがえらせ、永遠の生命に至る者とします。しかしもしこれらの「機密」と呼ばれる祈りや儀式が、ある日誰かが思い付いて始めたものであったならば、あるいは「機密」を行う恩寵を与えられていないものが勝手に行ったのならば、それにはなんの意味もなく、ただの白々しい儀礼に過ぎないものとなってしまうでしょう。そうではなく私たちの洗礼や聖体機密が確かに神の能力のあるものだ、と言い切れるのは、私たちの教会が使徒たちを通じて、確かにハリストスから受け渡されたものだからです。教会の使命や権威、恩寵は聖神の働きにおいて正しく継承され、今日の私たちの祈りを真に意味あるものとします。だから私たちは「使徒」という人々を大切にし、尊敬するのです。彼らがいたからこそ、私たちはハリストスに連なる者となることができ、確かなものとしてこの教会を受け入れることができるからです。

 私たちはこの「聖使徒ペトル・パウェル祭」を機会に、私たちの教会が使徒たちを通じてハリストスにつながりつづけている、いかに素晴らしいものか、改めて確認しなければなりません。そのことを知れば、この私たちの教会がいかに豊かな神の恵みに溢れ、確かな福音を伝えているのかを知ることができるからです。
 

エッセイ
​生き物

 盛岡教会のすぐ近くに「高松の池」という景勝地があります。もともと南部藩が整備した城下町北方のため池だったようで、白鳥をはじめ、多くの水鳥たちの越冬地として親しまれています。それ以外にも、ここに長いこと住み着いているアヒル一家、渡りをしないカルガモをはじめ、ヒヨドリやシジュウカラなどの小鳥たち、キジ、カラスやトビなどの大きな鳥、あるいはコイやフナ、カメやネコなど様々な生き物たちが、ここではそれぞれのんびりと暮らしています。彼らを見ただけでも生き物たちの多様さや、生態の面白さに驚かされますが、世界にはもっとたくさんの生き物たちが溢れています。

 さて、聖書では、実はかなり多くの箇所で生き物について言及されています。ノイ(ノア)の箱舟にはあらゆる獣と鳥たちが乗り込んできたし、103聖詠では色々な生き物たちの命の営みの様子が描かれています。恐ろしいクマも出てくるし、預言者に食べ物を運んでくるカラスもいます。私が個人的に好きなのは喋るロバ(何のことか気になった人はぜひ調べてみてください)。


 そもそも人間が創造されて最初に行った仕事は、この世の生き物たちに名前を付けることでした(創2:19)。神がアダムの前に生き物を連れてくると、アダムは彼らにそれぞれの名前を付けました。名前を付けるということは、その対象と深く関わるということです。人間は世界を愛し、守り、神と世界を繋ぐものとして創造されたと正教会は考えます。人間が動物を慈しみ、眺めていると気持ちが満たされるのは、もしかしたら人間の役割の本質に関わっているからなのかもしれません。

 思えば正教会の聖人伝でも、動物たちと特別に親密な関係を持った人々のエピソードが数多く伝えられています。ライオンの足のとげを抜いて以来、彼と仲良くなった聖ゲラシム。聖書をラテン語に翻訳した聖イエロニム(ヒエロニムス)にも同様のライオンと仲良くなった話があります。またサーロフの聖セラフィムは森の動物たちと親しかったと言われていますし、西方教会の聖人ではありますがアッシジの聖フランチェスコも小鳥や獣たちに主の福音を語っていたそうです。神の栄光に近づいた人間は、おのずと動物たちとの本来の関係も取り戻していくのかもしれませんね。

 (自分自身をこれらの聖人たちと比べるなど、とてもおこがましくてできないのですが、それでも動物たちとは仲良くなりたいので、少しずつでも頑張らねばなどと秘かに思っています)

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