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​不来方から

​不来方から

盛岡管轄区の教会報「不来方から」の一部の記事を抜粋して掲載します。

3月号
​巻頭
「視よ、痛悔の時なり。視よ、救いの日、斎の門なり。」

 「大斎は悔い改めの期間」とよく言われます。悔い改めるためには、私たちが一体何を悔いて、何を改めるべきなのかを知らなければいけません。見当違いの悔い改めは何も生まず、かえって自己満足だけが大きくなって、むしろ害になってしまうことさえあるでしょう。では私たちが正しく「悔い改め」をするためにはどうしたらよいのでしょうか。


 それは大斎の祈祷に参加することです。参祷し祈りの言葉をよく嚙みしめることです。大斎の祈祷文は、正教会の歴代の様々な聖人たちが、神を見つめ、そして自分自身の内面を見つめ、紡ぎ出した祈りの恵みです。そこに表現されている祈りのエッセンスに自分自身を添わせていくことで、私たちは少しずつ自然に斎の精神を身に着けていくことができます。


 例えば大斎の間に何百回も繰り返される「エフレムの祝文」。私たちが慎むべき「怠惰」「愁悶」「矜誇」「空談」、そして私たちが体得すべき「貞操」「謙遜」「忍耐」「愛」がそれぞれリストアップされます。あるいは大斎の最初の祈りである第一週月曜日の早課に登場する「喜ばしく、いと尊き節制」という言葉の味わい、アンドレイの大カノンの「己を偶像となして、諸欲を以て我が霊を損なえり」という言葉の意味、このような言葉に触れることで、私たちの心は「悔い改め」そのものの意味をより深く掘り下げていくことができるのです。

 また大斎では食の節制が行われますが、この節制の目的が単に食べ物を我慢することでないことも大切です。食べ物を我慢することで、その功徳として天国の門が開かれるわけでも、我慢できなかったことで地獄に落ちるわけでもないのです。大切なのは節制を通じて何を学ぶかです。普段の生活の中で、私たちは「あれを食べたい」「これが欲しい」「こんなことをしたい」という欲求を感じ、それに従い生きています。欲求それ自体は生き物として当然備わっているものだし、欲求が無ければ私たちは自分の生命を維持していくこともできないでしょう。ですから欲求そのものが悪なのではありません。しかしその欲求を無制限に満たし続けていくと、やがてその欲求はより大きくなり、怠惰や放縦、貪欲という良くない傾向が現れてきます。もしかしたら自分の欲求のために誰かを傷つけたり、あるいは過剰に欲求を満たし続けたために自分自身を壊してしまったりするかもしれません。欲求はどこかで適切にコントロールされるべきものなのです。大斎で食の節制をすることの意味のひとつは、この欲求のコントロールを学ぶということです。食の節制を通じて、いかに自分の欲求が自分自身を強く引きずっていくかを知り、また欲求をコントロールすることがいかに難しいかを知ります。これはやったことがある人でなければ分かりません。そしてこの自分自身の強い欲求が食欲だけでないことも、食の節制をきっかけに知ることになるでしょう。肉体的な欲求だけでなく精神的な欲求もあります。「人から褒められたい」「立派な人物だと思われたい」「愛情を独占したい」「目立ちたい」「人より優位に立ちたい」。これらは肉体的欲求以上に強烈なモチベーションとなり、時として人間を凄まじく大きな罪と悪へと駆り立てていきます。

 大斎の祈祷はそのような人間の本質をえぐるような言葉に溢れています。斎の実践を通じて自分の弱さを心の底から痛感した聖人たちの自己観察、謙遜、そして救いは神の憐みにしかないのだという確信。その集大成として大斎の祈祷は編纂されているのです。大斎の40日間、1度でも2度でも教会で行われている平日の祈祷に足を運んでみませんか?そこで読まれている言葉を目で追いながら触れてみませんか?もしかしたら祈祷の中で、天啓のように自分の心に刺さる言葉と出会うかもしれません。出会ったのならそれは神から与えられた素晴らしい賜物なのです。ともに祈り、ともに成長し、ともに斎の喜びを分かち合いましょう。

​エッセイ
​「イマジナリーエネミー」

 「イマジナリーフレンド」という心理学、精神医学の言葉があります。幼少期の子供に見られる「想像上のお友達」のことで、時として彼らは空想以上の実在感をもって子供たちの心をサポートする役割を担うそうです。これは決して病的なことではなく、子供の自我の発達や社会性の獲得の点で、成長を補完していくものです。この「想像上のお友達」は子供の成長に伴って役割を終えて、次第に意識の表面に現れなくなるそうです。私たちの心の中、無意識というのは実に不思議な機能に満ちているものだと感じさせられます。

 さて、心の奥からやってくるのが「想像上のお友達」であるのならば、そんなに問題はないのでしょうが、私たちの心には時として招かれざる客もやってきます。敢えて言うなら「イマジナリーエネミー(想像上の敵)」とでも名付けましょうか。私たちの心を苛む厄介な相手です。しかもこれは大人になった私たちにも襲い掛かってきます。


 現実の生活な中で、私たちは時折人間関係のトラブルに巻き込まれます。意見が合わない人や反りが合わない人がいる。事あるごとに突っかかってくる人がいたりもします。あるいはどうしても好きになれない人に敵意を向けたり、逆に敵意を向けられたり。そのような経験がない人は一人もいないのではないでしょうか。そのような事をいつでも上手にやり過ごしていければ楽なのですが、やはりたまにどうしてもカチンと来てしまうこともあります。また酷い言葉や態度に何も言い返せず、心の中に澱んだ黒い感情が溜まっていってしまうこともあります。


 そういう時に私たちは「イマジナリーエネミー」を(わざわざ自分で)呼び出してしまうのかもしれません。自分の心の中の「あいつ」に向かって「ああ言ってやればよかった」「こう言ってやればよかった」と際限なく闘争を繰り広げます。心の中の「あいつ」も黙っていないので、とにかく相手をコテンパンに論破してやろうと、頭の中で延々と喧嘩を続け、ますます怒りを募らせます。しかしどんなに相手を言い負かしたところで、相手はしょせん自分の心の中にしかいない「想像上の敵」なので、その戦いの無益なことはこの上ありません。本物の「あいつ」は、自分の想像の中で打ち負かされたことなど露知らず、いつもと同じように生きているのでしょう。こんなに無駄なことはないでしょう。怒りを自分の中で反芻し、増幅させ、実体以上に大きくなった怒りでさらに怒りに燃えるのです。


 私たちの生活の中で腹が立つことや、カチンとくること、悲しくなるほど憤ることはあります。これは私たちの外からやってくることなので避けることにも限度があります。しかし自分の心の中の「想像上の敵」との闘争は自分の内側の問題です。この戦いをやめるために大切なことは、「自分が今、心の中で想像上の敵と戦っている」ということに気付くことです。自分の怒りと空想上の闘争を俯瞰で眺め、そんな自分のバカバカしさを認識することです。それだけで怒りが静まることもあります。それでも収まらない怒りであるならば、その怒りを取り除いてくださるよう、神に憐みを求めることです。「主イイスス・ハリストス、我を憐れみ給え」。私たちは神の名を唱えながら、同時に呪詛の言葉を吐くことはできないはずです。

 大斎はとりわけ自分の心の中で起きることを見つめる機会が増える時期です。「想像上の敵」との闘争だけでなく、自分の心の中で起きる様々な出来事に敏感に気付けるようになりたいものですね。

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