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​不来方から

​不来方から

盛岡管轄区の教会報「不来方から」の一部の記事を抜粋して掲載します。

7月号
​巻頭
「また信ず、一つの、聖なる、公なる、使徒の教会を」

 私たちが聖体礼儀の中盤で祈る「信経」は、4世紀の教会において「私たちの信仰はこういうものである」と告白するために作られた「ニケア・コンスタンティノープル信経」という信仰宣言の文章です。信経ではまず「我信ず、一つの神、父、全能者」と「神・父」に関する信仰告白を行い、次いで「また信ず、一つの主、イイスス・ハリストス、神の独生の子」と「神・子」に、「また信ず、聖神、主、生命をほどこす者」と「神・聖神」に関して信仰を告白します。これらのことから、キリスト教の信仰が「父と子と聖神」という至聖三者に向けられていることがよく分かります。そしてその次に私たちが何を宣言するかというと「また信ず、一つの聖なる公なる使徒の教会」と、教会を信じるということが述べられます。さて「至聖三者を信じる」ということはなんとなく分かっても、「教会を信じる」ということがどういうことなのか、もしかしたら少しピンとこないかもしれません。

 私たちのしがちな勘違いのひとつに「教会」というものを、単に「会社」や「学校」のようなこの世の組織のひとつ、人間の集団で作る組織のスケールで捉えてしまうことがあります。社長がいて、役員がいて、社員がいて、顧客がいるのと同じように、主教がいて、司祭団がいて、信徒がいると考えてしまっていないでしょうか。もしこのように教会をこの世の組織、法人と同じように、単なる人間の集団と考えてしまうのであれば、それは教会の意義を大きく失わせてしまいます。

 私たちが「一つの聖なる公なる使徒の教会」と信仰告白する教会は、そのような人間の組織のレベルで語られるものではありません。教会の原点はハリストスにあります。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者には、永遠の命があり、わたしはその人を終りの日によみがえらせるであろう(イオアン6:53)」というハリストスの言葉を信じて聖体を受け、復活と永遠の生命を希求する人々の集まりが教会です。教会は「ハリストスの体」と呼ばれることがありますが、それは洗礼を受け聖体を受ける私たちがハリストスと一致して、ハリストスに倣う大きな一つの集まりとなるからです。ハリストスは使徒たちに世界中のあらゆる人々を教会に招くように命じました。使徒たちのこの世の生命が終わるとき、その役割は使徒たちの後継者である主教たちに引き継がれていきました。またその働きを助けるために司祭や輔祭が任命されました。体に骨や内臓や神経、筋肉などがあるように、ハリストスの体である教会にもさまざまな働きを成すために様々な器官が存在します。神品だけが教会なのではなく、信徒の一人一人までハリストスの身体を作る大切な要素なのです。教会はただの公益法人でもなく、聖書学習をする人々の学校でもなく、ましてこの世の利益を追求するための営利組織でもありません。ハリストスに連なる人々の集まりだからこそ教会は教会たり得るのです。

 そしてその教会が確かにハリストスの体であるという確信を、私たちは教会が「使徒の教会」であることから見出します。ハリストスの任命した使徒たち、その使徒たちを引き継いだ主教たち、その主教たちを引き継いだ次の主教たち、この連綿と繋がる使徒の鎖によって現在の私たちの教会もハリストスと繋がるものであると言うことができます。そしてその教会にこそ私たちの救いがあると私たちは信頼します。これが私たちが「一つの聖なる公なる使徒の教会」と信仰告白することの意味なのです。
 

​エッセイ
​「ぼくがぼくであるために」

 鈴木雅之という歌手がいます。シャネルズ、ラッツ&スターのメンバーとして印象に残っている方もいるかもしれません。ラブソングの帝王の異名を持ち、様々な恋愛模様を、時に軽妙に、時にソウルフルに歌う歌手ですが、先日車のラジオで彼の歌が流れました。タイトルは「きみがきみであるために」。少しサビの部分の歌詞を引用してみましょう。

きみがきみであるために
ぼくはきみといるから
(中略)
ぼくがぼくであるために
ぼくはきみが必要

 私たちは自分と他人がまったく別個の独立した存在であることを知っています。どんなに愛し合う者同士でも、親でも子でも他者は他者、自己は自己です。いわゆる「個人主義」というのはただの自分勝手に自己中心的に生きるということではなく、本来はこの誰にも侵され得ない「自己」の独立性を重視する考え方であると言えるでしょう。キリスト教でも「人間には自由意志がある」と言う時には、この独立性こそ神から与えられた尊い賜物であると考えます。


 その一方で自己とは他者との関わりの中でしか確立し得ないという考え方もあります。この歌の歌詞の中ではそれが恋人との関係として表現されていますが、それは必ずしも恋人同士だけでなく、あらゆる隣人との関わりと言い換えることもできるでしょう。自己は無数にいる他者との関わり合いによって「成就」されます。キリスト教にとって自己と他者との関わりは存在の意義や理由に関わる事柄です。主が最も重要な律法として示したのは「神を愛せ」「隣人を愛せ」という項目でした。また神の似姿として造られた人間は至聖三者の在り方が理想とされており、それは「父と子と聖神」という独立した三者が愛によって一つに結ばれた姿によって示されています。


 つまり私たちは個々にはそれぞれの自由意志を持った完全に独立した別個の存在ですが、そこから始まって隣人=他者との愛の交わりの中で自己を無限に成就していくことが、神が人間を創造したときに込めた存在理由であり、可能性なのです。


 「ぼく」があるべき「ぼく」であるためには「きみ=他者」との関わり合いが必要不可欠であり、「ぼく」は「きみ」との交わりを通じて初めて「本当のぼく」になり得るのだ。恋人同士のラブソングを越えて、人間の存在意義(レゾンデートル)を表現しているなあ、などとカーラジオを聞きながら思ったのでした。

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