不来方から
不来方から
盛岡管轄区の教会報「不来方から」の一部の記事を抜粋して掲載します。
10月号
巻頭
「至聖なる女宰生神女よ、我等の為に神に祈り給え」
正教会の年間の暦を見ると「生神女」の名前を冠した祭日が数多くあることに気づきます。10月14日に祝われる「生神女庇護祭」もそのような生神女の諸祭日のひとつです。
10世紀、正教を国教とする東ローマ帝国は、しばしばアラブ人の侵略に悩まされていました。903年、首都であるコンスタンティノープルがイスラムの軍勢に包囲されていた時、人々が熱心に苦難からの解放を祈っていると、アンドレイという一人の男が天を指さして言いました。「生神女がオモフォル(主教が肩にかけているストールのような布)を捧げて祈っている!」。彼の弟子であるエピファニイも同じことを見ました。生神女は人々のために祈り、捧げ持ったオモフォルで信徒たちを覆ったと言われています。この奇跡の後、コンスタンティノープルはアラブ人の軍勢を追い返し、再び町に平和が訪れました。そしてこの奇跡の出来事を「生神女庇護祭」として記憶するようになったということです。
正教会はしばしば、苦難にある時に、特に生神女に向けて祈りを捧げてきました。私たちは決して、生神女を全知全能の神として崇拝しているのではありません。しかしそれでも私たちは生神女マリヤに祈ります。それは生神女が私たちの祈りを神にまで届けてくれると信じているからです。私たちの望みをかなえる力を持つのは神だけですが、しかし生神女は神のすぐそばで、神といつでも気持ちを通わせています。生神女は私たち祈る者の声に耳を傾け、必要な助力を神に願ってくれるのです。そして神はその「母の言葉」を決して無視しません。
現在、私たちの住むこの世界も苦難の中にいます。敵軍に包囲された城のように、見えない疫病という敵に包囲され、まるで真綿で首を絞められるような窮屈さが世界全体を覆っています。このような苦難の時に、私たちキリスト者はまず祈ることを忘れてはなりません。もちろん社会的な感染症対策も、専門家による科学的知見も重要です。それを軽視していいわけではないし、「祈っていれば病気にかからない」などと無責任なことを言うつもりもありません。祈っても病気にかかるかもしれません、かかった病が治らないかもしれません。しかしそれは祈りをやめていい理由にはならないのです。
苦難にある時だからこそ、私たちは祈ることを思い出しましょう。十字を描いて「至聖なる生神女よ、我等の為に神に祈りたまえ」と小さく口ずさんでみましょう。半信半疑かもしれないし、最初は少し気恥しいかもしれません。しかしその言葉を生神女はきちんと聞いています。どのような形で私たちの祈りがかなえられるのか、いつかなえられるのか、それはまさに「神のみぞ知る」ことです。しかし生神女に祈る私たちの声を、生神女は神にひとつひとつ届けて下さいます。そのことに希望を持って、この苦難の時にしっかりと心を堅くしていきたいものですね。
エッセイ
「生きててよかった」
つい先日、長年にわたって人気のクイズ番組、「世界ふしぎ発見」で、全国の花火が特集されていました。その中で私の故郷である愛知県の手筒花火が紹介され、ミステリーハンターの青年が挑戦するという企画がありました。手筒花火とは極太の噴き出し花火を脇に抱え、天に向かって火花を勢いよく噴き上げるという大変勇壮な伝統花火です。自分のすぐ横で猛烈な勢いの花火が火を噴くので、当然危険も伴います。そんな花火をやれと言われて、やや委縮してしまっている青年に、地元で長年手筒をやっているおじさんが声を掛けました。「やり終わったら『生きててよかった!』って思うから!」。
その言葉を聞いて、ふと考えました。「生きててよかった」って何だろう、と。「人生の意義」とか「生きる目的」とか、私たちはしばしば自分が生きるということを小難しく考え、ある人はそのまま袋小路に落ち込んでしまいます。喜びの無い人生、灰色の生活、毎日毎日同じことの繰り返し、「生きててもつまらない」。それは「生きててよかった」の対極です。私たちの口から「生きててよかった!」という言葉がほとばしりでることなんて、果たしてあるのでしょうか。
番組では青年ががちがちに緊張しながらも手筒花火に挑戦し、火花を噴き上げ、最後の破裂の瞬間までやり遂げました。彼は頭からかぶった水と汗と涙で顔面をぐちゃぐちゃにしながら「生きててよかったあ!」と咆哮します。その時、「ああ、これ分かるわ」と一瞬で理解しました。
聖体礼儀を行っていると、時としてものすごい感動が押し寄せてくる時があります。なんて素晴らしいことなんだろうかという感動です。もっと分かりやすいのは復活祭の時かもしれません。十字行を終えて、その日初めての「ハリストス復活!」を叫ぶ時、心からあふれる感動はまさに、生命全体が燃え上がるような喜び、「生きててよかった!」という魂の叫びです。私たちが生きる意味、目的はここにあるんだ、ハリストスの生命に触れることが生まれてきた意味なんだ!と。
「生きててよかった!」とは人間の魂が喜びに震え、そこにいる自分を、自分を取り巻くすべてを肯定したときにあふれ出てしまう言葉なのかもしれません。「今ここに存在できたことがこんなにも素晴らしい」という感情が「生きててよかった!」という言葉に集約されています。そして教会には確かにその感動があります。心震える歓喜があります。その喜びを一人でも多くの人に伝えて、「生きててよかった!」と言える教会にしていきたいものです。