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​不来方から

​不来方から

盛岡管轄区の教会報「不来方から」の一部の記事を抜粋して掲載します。

11月号
​巻頭
「イエッセイの根より生じたる枝、
及びその花なる讃美たるハリストス」

 新約聖書のマトフェイによる福音書の冒頭にはイイススの家系図が記載されています。ここではアブラハムから始まり、イスラエル王ダヴィドを経由して、生神女マリヤの婚約者であったイオシフまで歴代の人物の名前が挙げられています。イイススは聖神によって処女マリヤが身ごもって生まれたのでイオシフの家系図は関係ないように思うかもしれませんが、それでもイイススは「イオシフの子」として育てられましたし、生神女マリヤもこの家系に属する者であったと教会は伝えています。イイススは神が人間となったお方です。イイススは神・父の永遠の独り子である「神・子」であると同時に、アブラハムから(正確にはその前から)連綿と繋がる「人間の子孫」でもあるということです。私たちが父母のそのまた父母のと辿っていくと、明治時代を超え、江戸時代を超え、どんどん超えて弥生時代、縄文時代、人間が日本に住むより前の時代とさかのぼっていくのと同じように、イイススもまた長く繋がる人間の生命の鎖の末端としてこの世に生を得たのです。


 イイススの先祖が生きたのは旧約聖書の時代です。アダムとエヴァが至聖三者によって創造され、彼らが神に背く罪を犯し、その子孫がこの世界で悪戦苦闘しながら生きてきた時代の記録が旧約聖書です。旧約聖書には様々な人々が登場します。神をないがしろにする愚かな人々がいる一方で、神を知り神を拝むことを忘れなかった人々がいます。この世の苦しみの中でも、祭壇を築き神に犠牲を捧げその言葉に耳を傾ける人々がいたのです。旧約聖書はそのような善き人々、あるいは悪しき人々の歴史であり積み重ねです。人間は罪に陥って以来、善と悪の間を右往左往しながら歴史を紡いできました。


 ではイイススの家系図に登場する人々は、全ての人が神の家系図にふさわしい善なる人々だったのでしょうか。神を忘れない善人たちだけの特別な家系の末にイイススが生まれたのでしょうか。これは必ずしもそうではありません。たとえばイイススの家系図には何人か女性が登場しますが、彼女たちはみな「訳あり」です。イウダ(ユダヤ人の祖)とファマリ(タマル)は舅と嫁の関係でしたが子を産みました。ラハフ(ラハブ)やルフィ(ルツ)はイスラエル人が本来交際すべきでなかった異邦人の女性でした。「ウリヤの妻(バテシバ)」は美しい女性でしたが人妻で、ダヴィド王は彼女を得るために狡猾な手段でその夫ウリヤを死に追いやり、悲しむバテシバの寝所に潜り込み子をもうけました。イイススの血統には、実は罪人や訳ありの人々の血が確実に流れ込んでいるのです。イイススは決して「無菌状態」の先祖から生まれたのではなく、善と悪のせめぎあいであった旧約時代全体を背負ってこの世にお生まれになりました。ひいては人間のあらゆる歴史がイイススというお方に流れ込んでいると言ってもいいかもしれません。


 長い長い旧約の時代は神をこの世に迎えるための準備の期間でした。人間が罪に陥りつつも、神を忘れたり頼ったりしながら長い時間をかけて成長し、ついに生神女において実を結んだのがハリストスの降誕だったのです。罪を犯してすぐに救済が与えられたわけではありませんでした。神は人間の成長を見守り、この世に入るべき「その時」を待っていたのです。


 11月28日から私たちは40日間の「聖使徒フィリップの斎」を迎えます。この斎は1月7日の主の降誕祭まで続きます。私たちは斎を通じて救世主の到来を待ち望むという旧約時代の人々の思いをなぞることができます。旧約の人々が善と悪の間で揺れたのと同じように、神に対する信仰と不信の間で揺れ動く私たち自身を見つめることができます。善と悪のせめぎあいを通じて成長し、ついに神を迎え入れたこの世界と同じように、私たちも神の救いを頼る者として成長し、救世主を迎え入れる準備をしなければなりません。食べ物の節制だけではなく、自分の心の動きや感情、考え方の傾向に注意深くなりましょう。あるいは改めて旧約聖書を読んでみるのもいいかもしれません。

 皆さまが降誕祭に向けて善き斎を過ごせますように。

エッセイ
​「攻略本」

 私が物心つくかどうかという頃に発売されたファミコン。世代的に生まれながらの「テレビゲーム世代」の私ですが、私自身もゲームは大好きでよくプレーします。ゲームと一口に言っても色々あって、初期のジャンプとダッシュ、パンチくらいしかないアクションでゴールを目指すゲームから、最近のかなり入り組んだ知識とテクニックが要求される高度なものまでさまざまです。中には難しいゲームシステムで、一見とっつきにくいですが、仕組みを理解すると実に面白い「スルメゲーム」(噛めば噛むほど味が出るから)などと呼ばれるものもあります。


 そのようなゲームにつきものなのが「攻略本」(ネットが普及してからは「攻略サイト」なども)で、ゲームプレーに関する様々な知識や攻略法、裏技まで紹介されていたりします。攻略本があるとプレーに幅が出て、より深くそのゲームを味わうことができるようになるでしょう。


 ではゲームをプレーする前から攻略本を読んでいたらどうでしょうか。あらかじめ知識を入れておいてからプレーすれば、スムーズに無駄なくゲームが始められるでしょうか。これがそうでもありません。そもそも本に何が書いてあるかが全然分からないんですね。そのゲームの用語もシステムも全然分からず、暗号のような文章の羅列になってしまうのが、プレーしたことのないゲームの攻略本です。


 さて、正教会の祈祷や伝統もそれに似たような部分があると思うのです。正教に関する本で読んで勉強すれば正教会が分かるのか。いえ、これはさっぱり分からない。祈祷を体験する前に本を読んでも、おそらくそこに書いてある内容が全く理解できないのではないでしょうか。大切なのはまず祈祷に出てみることです。そして何度か参祷してから改めて本を読むと「なるほど、そういうことだったのか」と得心が行くこともあるでしょう。一見とっつきにくいゲームでもまずは触ってみて、ゲームオーバーを何度か繰り返しているうちに、なんとなくプレーのコツのようなものがつかめてきます。そしてだんだんゲームが面白くなってくる。そういうタイミングで攻略本を読むと、内容もしっかり入ってくるし、もっと深くゲームを楽しめる知識を得ることができるようになります。正教についてもまずは祈祷の体験が先です。よく「キリスト教について知識がないから教会に行くのがはばかられて」なんて言葉を聞きますが、それは順序が逆なのです。勉強は後からです。


 とはいえ、まったく勉強をしなくていいかと言えばそういうことでもありません。ゲームで言うなら、自己流のプレーには限界があるし、上級者になってもっとしっかり楽しみたいなら研究が不可欠です。教会のことも、祈祷の体験という土台をしっかり作った上で勉強をすれば、より奥深い正教の味わいを知ることができるでしょう。


 ハリストスの福音は人間が作ったゲームとは違い、無限の深さと味わいつくせない体験が用意されています。まずはやってみる。分からないことがあったら勉強してみる。またやってみる、の繰り返しで無限大の楽しみや喜びを味わってみませんか。

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