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​不来方から

​不来方から

盛岡管轄区の教会報「不来方から」の一部の記事を抜粋して掲載します。

10月号
​巻頭
「爾の隣を愛すること、己のごとくせよ

 第15主日に読まれる福音の中で、イイススは律法の掟の中で最も重要なのは「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くしてあなたの神である主を愛せ」というものだと言っています。そしてそれと同様に「隣人を自分のように愛せ」という掟も大切であると続けました。「全身全霊で、自分のすべての存在をかけて神を愛すること、自分自身のように隣人を愛すること」、この二つの掟こそが600を超えると言われる律法の項目の中で最も重要であると主はおっしゃっています。

 この二つの掟は実はひとつのところに繋がっています。なぜならば「兄弟である最も小さい者の一人にしたことは、私(イイスス)にしたのと同じ(マトフェイ25:40)」だからです。私たちが直接この肉体の目で捉えることのできない、耳で直接声を聴くことができない神を愛するということは、漠然としていて難しいかもしれません。しかし目の前に見える、声が聞こえる、触ることができるひとりの人間を愛することは、私たちには可能なのです。目の前にいる一人の隣人に本気の愛と憐みを持つことは、目の前にいるようには感じられない「神」というお方を全力で愛することと同じです。逆に言えば、どんなに強い信仰があったとしても、あるいは熱心な祈りや斎を行ったとしても、隣人への愛が無いのならば、それは神を本当に愛しているということにはなりません。聖使徒パウェルは「どんな異言(神の言葉を超自然的に語ること)も愛が無ければ騒がしい銅鑼、やかましいシンバル。山を動かすほどの信仰を持っていたとしても愛が無ければ無に等しい(1コリント13:1-2)」と言っています。また「人を愛する者は律法を全うするのだ(ローマ13:8)」とも言っています。それほどまでに隣人への愛はキリスト者にとって重要です。

 では隣人愛とは何か、自分のように隣人を愛するとはどういうことでしょうか。ここで一つ注意するべきなのは、この言葉が「自分を愛するように隣人を愛しなさい」ではなく「自分のように隣人を愛しなさい」だ、ということです。自分への愛はしばしば歪んだ形を取ります。「自分自身を愛するように」他者を愛するというのは、場合によってはエゴイズムの極みともなりかねません。


ここで問われているのは「あなた」という「自分」はいったい何者なのか、ということです。正教の教えによれば、人間は神の像(神に似ていること)と肖(神にもっと似ていく可能性)を持って創造された存在です。神は自分自身の性質、善性を注ぎこんで人間を造りました。人間に知恵があるのも、言葉を持つのも、物を創り出す力を持つのも、自由なのも、そして他者を愛することができるのも、すべて私たちが神の像、つまり神をモデルに造った生きた彫刻のような存在だからです。誤解を恐れずに言えば、人間は神の姿を宿した「ミニ神」とでも呼べる存在です。あなたはそういう存在なのだよ、とイイススは言います。神に似たものとして、尊く、美しく、愛されるべきものが人間、「あなた」なのだ、と。残念ながら人間は罪に堕ち、神の像と肖を大きく損ないましたが、それでもなお私たちの中には神の尊さの光が残っています。それは「あなた=自分」も他の世のすべての人も同じです。それが強く輝く人もいれば、まだ隠されている人もいるでしょう。それでもその光のかけらを持っているということでは、あらゆる人に例外はありません。だから、「何よりも尊い神の像と肖を持つあなた」とおなじ「神の像と肖を持つ隣人」をその尊さゆえに大切にし、愛しなさいとイイススは言っているのです。その尊い神の姿を愛し敬うからこそ、私たちの隣人への愛は神への愛と通じるのです。

 手垢のついた表現ですが「キリスト教は隣人愛の宗教」であると言われます。そのことの根底にはこのような背景があるのです。不安や多忙の中でつい隣人への愛を忘れてしまうような時代です。他者は自分の利益のためにあるのでも、単なるデータ上の数字として存在するのでもありません。「わたし」が私であるように、「あなた」も「彼、彼女」もまた同じ神の尊さを分かち合っている人間なのです。そんな当たり前のことを、しかし大切なことに改めて気を付けていきたいものです。

エッセイ
​「アスリート」

 先日東京オリンピック、パラリンピックが閉幕しました。「より速く、より高く、より強く」という言葉は、彼らアスリートの特性をよく表しています。彼らは少しでも優れた競技者となるために、日々身体を鍛え、精神力を養い、それを発揮する日に備えます。いざ競技会の日になれば、そのように心身を鍛え上げた者どうしが、技と力をぶつけ合います。ある者は勝ち、ある者は負けます。喜びを爆発させる者もいれば、悔し涙を流す者もいます。敗者の健闘をねぎらう勝者がいて、勝者の強さを讃える敗者もいます。それはとても清々しい光景であり、私たちに勇気や生きるヒントを与えてくれるものです。

 聖使徒パウェルは私たちの生き方を競技者にたとえました。コリントの教会へ書いた手紙の9章において、パウェルはキリスト者を、賞を得るためにレースを走るランナーになぞらえています。アスリートたちはレースに勝つためにトレーニングと節制を行い、ボクサーは無駄な空振りをしない、と。競技に勝つためにはダラダラと怠けてはいられません。賞を得たいのであれば、苦しい走り込みや基礎練習の繰り返しが必要なのです。練習不足のボクサーの拳は標的を外し、虚しく空を切るのみです。あなたたちもアスリートの姿勢にならいなさい、とパウェルは言っています。


 私たちが望む金メダルは、神の国に入れられるという栄光です。私たちは人生という長いレースを懸命に走りぬきます。あるいは敵の拳に耐えながら、何とかギリギリで踏みとどまります。そしてついに栄冠をつかみます。私たちの競技は誰かと競っているものでもなく、自分自身との戦いです。誰かが勝つことによって自分が負けるわけではありません。自分が勝つことによって誰かが負けるものでもありません。ただ自分が勝つかどうか、です。だからと言ってこの戦いは孤独なものでもありません。アスリートにはコーチや監督、セコンドなどがおり、競技を応援してくれる人々がいます。チームメイトの助けもあるでしょう。私たちの人生にも、仲間がいて、友人がいて、そして神がいます。神は時には厳しいコーチかもしれません。しかし誰よりも私たちを応援してくれます。オリンピックの風景を思い出してください。競技を終えた選手は、勝っても負けてもコーチに駆け寄っていきます。コーチはまず全力を尽くした選手を抱きしめて、その健闘を讃えているのではないでしょうか。勝ったのならばともに喜び、負けたのならば選手の悔しさを受け止め、次を頑張ろうと励まします。

 私たちは、この人生の選手として、今どのような状況でしょうか。勝っているのか、負けているのか、トレーニングが必要なのか、気力を振り絞る場面なのか。私たちには応援してくれる仲間も、いつも私たちの勝利を考えてくれるコーチもいます。私たちは、パウェルの言う通り、ひとりの競技者として、この人生というレースを全うし、そして勝利の栄冠を得られるように走り抜けましょう。私たちは人生のアスリートであり、そして決して一人ではないからです。

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