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​不来方から

​不来方から

盛岡管轄区の教会報「不来方から」の一部の記事を抜粋して掲載します。

7月号
​巻頭
「子よ、爾も至上者の預言者と称えられん」

 7月7日、私たちは前駆授洗イオアン誕生祭をお祝いします。前駆授洗イオアンはヨルダン川でイイススに洗礼を授けた人物ですが、彼の役割の本質は「道を整える」ということにあります。救い主であるハリストスの前を走り、人々にイイススを迎える準備をさせ、主の通る道をきれいでまっすぐにすることがイオアンの生まれてきた意味でした。


 イオアンの洗礼は罪の悔い改めの証でした。もう間もなく救い主がやってくるので、それにふさわしく罪の生き方を改め、メシアを迎え入れる準備を整えなければなりません。人々はイオアンから洗礼を受けるために各地からヨルダン川へと集まりました。

 歴史的な時間の流れの中で見るならば、イオアンの役割は、イイススに洗礼を施し、イイススが弟子を集めて福音宣教を始めたときに終わったと言えるでしょう。イオアンはイイススに、人々を導く役割をバトンタッチし、彼の「道を整える」生き方は全うされました。しかし私たちが自分自身の問題としてイオアンの言葉を聞く時、彼の役割はいまだ大きな意味を持っています。私たちは洗礼を受け、ハリストスに連なるものとなったキリスト者ですが、しかしハリストスを迎え入れるに十分な準備がいつも整っているのでしょうか。洗礼を受けてなお、私たちの中にはまっすぐでない、狭く入り組み、路面のボコボコな道が残っているのではないでしょうか。

 イオアンは人々に痛悔を呼びかけました。私たちもしばしば痛悔の祈祷を行います。なぜならば弱い人間である私たちはたびたび罪を犯してしまうからです。それではそもそも罪とは何か。他者に心無い言動をしてしまった、些細なことに怒ってしまった、貪欲な行動をしてしまった。あるいは酒を飲みすぎた、人の悪口を言った、喧嘩をした。確かにそのような個々の行動一つ一つも罪かもしれません。しかし私たちの個々の罪の背景には、もっと根本的で本質的な原因があり、それが私たちに罪の行為をもたらしているのです。

 その原因とは、私たちの人生がいまだ神という道によって貫かれていないということです。自分の人生の目的を「自分自身を満足させること」だと思う気持ちが残っている間は、細かい個々の罪は何度も何度も繰り返されるでしょう。自分の人生の目的を自分自身のためから、神の喜びのためへと根本的に向き直すことが痛悔の本質であり、「道を整える」ということです。神が喜ぶこととは「全力で神を愛すること、自分を愛するように他者を愛する」ことです。自分自身も他者も、神に創造され神の愛を一身に受けた存在だと知り、その愛に応えること、その愛を他者にも振り向けることができたときに私たちの道はまっすぐになります。

 イオアンが荒れ地で呼ばわる声は、今でも、いつも私たちに響き渡っています。その声を聞き逃さず、神を迎え入れるにふさわしいまっすぐな道でいられるように祈り務めましょう。その道は神の国へと続いている栄光の道だからです。

エッセイ
​「空を飛ぶ鳥、野に咲く花」

 岩手県に引っ越してきてから驚いたことのひとつに、春の花が急速に開花することが挙げられます。私の生まれ育った関東や東海地方では、春は二月の末ごろから始まり、まず梅が咲き、次に桜が咲き、という風にゆっくり順番に開花します。しかしこちらでは4月末頃まで沈黙していた花々がある日突然咲き乱れ、いきなりヴェールを外されたかのように、町も野山も色とりどりに一変します。そして夏が終わるまで、様々な花が入れ代わり立ち代わり私たちの目を楽しませてくれます。東北の春は遅いけれども、その代わり濃縮された爆発力があります。

 イイススの言葉に「野の花を見よ、働きもせず紡ぎもしないが、栄華を極めたソロモン王でさえこの花のひとつほどには着飾っていなかった(マトフェイ6:28-29)」というものがあります。この言葉の実感は、こちらに来て初めて分かりました。昔から花は好きでしたし「きれいだな」と思うことはあっても「栄華を極めた」「着飾る」とまでは思わなかったからです。しかしここで春の溢れるような色彩を見て、「そうか、こういうことか!」と腑に落ちたのです。この言葉は「こんな花一つだって神はこんなに美しくしてくださるのだから、あなたたちは何を着ようか、どうしようかなどと思い悩むな。必要なものはすべて神が与えて下さる」という意味ですが、野の花の美しさを知らなければ、このたとえ話の味わいも奥深さも、浅い理解にとどまってしまっていたでしょう。

 神はこの世界を創造し、育まれます。神は世界に様々な仕掛けを施しました。それは星が輝くことであったり、太陽が明るく暖かいことであったり、雨が降ったり風が吹いたりすることであったり、動物が野山を駆け回り、愛らしい姿を見せることであったり、野原に花が咲き乱れることであったりです。そして人間の心にも仕掛けがあります。それらの仕掛けを見たときに心が動かされるという仕掛けです。自然の美しさや精緻さに心を動かされるとき、神のメッセージは私たちの心に入りやすくなるのかもしれません。

 神が私たちの耳に聞こえるように、直接言葉で語りかけてくることはごくごく稀なことです(全く無いとは言いませんが)。キリスト者であってもほとんどの人はそういう体験をせずに一生を終わります。しかし神は様々な仕掛けの中で私たちに秘かに語り掛けています。それを聞き漏らさない注意深さが私たちには求められています。何より、神が作ったこの世界の素晴らしさを味わい、それを喜び受け取ることが神の言葉を聞く早道になるのかもしれませんね。

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