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​不来方から

​不来方から

盛岡管轄区の教会報「不来方から」の一部の記事を抜粋して掲載します。

2月号
​巻頭
「今日救いはこの家に臨めり」

 正教会の暦では大斎準備週間の始まる1週前の主日聖体礼儀では、ザクヘイ(ザアカイ)という男のエピソードが読まれます。このザクヘイは税吏(徴税人)だったのですが、この税吏という職業はローマ帝国から税金を集めることを請け負っていた属州民の外部委託業者でした。ローマ帝国は税吏が所定の金額の税金を集金し納入さえしていれば、横領や不正蓄財をある程度黙認していたそうです。したがって税吏は大変「儲かる」仕事でしたが、欲と不正の薄汚いイメージが付きまとい、現地の同胞たちからの憎悪と恨みを一身に集める立場でもありました。ザクヘイはそんな税吏の一人でした。


 ある日ザクヘイの住む町にイイススという評判の先生がやってきました。ザクヘイはなぜかこのイイススという人物を一目見てみたいと思い立ち、人垣の方へと向かいました。しかし背の低いザクヘイはイイススを見ることができません。そこでザクヘイは近くにあった木に登り、その上からイイススの姿を認めると、イイススはザクヘイに目を留め「今夜はあなたの家の客となろう」と声を掛けました。人々はあんな徴税人の家に泊まるなんて、と秘かに呟きました。しかしザクヘイはイイススを迎えられる喜びに溢れ、自分のお金を貧しい人々に施すこと、不正な取り立て分は4倍にして返済することを約束しました。イイススはそんなザクヘイを見て「今日救いがこの人の家に来た。人の子(ハリストス)は失われていたものを見つけ出すために来たのだ」と言われたということです。


 ザクヘイにとってイイススとの出会いは人生の一大転換でした。ザクヘイは税吏としてかなりの財産を持っていたはずですが、しかし人々からは蛇蝎のように嫌われていたことでしょう。人々から憎まれ、蔑まれれば、なおさら自分の持っているお金にすがるしかありません。金目当てに集まる人もいます。お金によって力を示すこともできます。人間同士の優しい愛を得られなかった、あるいはそれを引き換えにしてお金を得たザクヘイにとって、頼るべきもの、人生の指針は「お金」でした。「お金があるから大丈夫」。もしかしたらザクヘイはいつも自分にそのように言い聞かせていたのかもしれません。しかしそんなザクヘイの人生はイイススに認められ、家に泊まろうという一言をかけられて大きく変わりました。ザクヘイにとってはイイススに認めてもらえたことが何よりの喜びだったのです。お金で得ることのできない「愛」を確かにザクヘイはイイススから感じたはずです。ザクヘイがイイススの愛を感じたのは、この木に登ってイイススに声をかけられた瞬間のことだったかもしれません。しかし実はイイスス、すなわち神のザクヘイへの愛はこれまでもずっと注がれ続けていたのです。ザクヘイがイイススを見てみたいとなぜか思い立ち、木に登ってでも見てやるんだと行動したときに、彼は神から注がれ続けていた愛に気付き、それに撃たれたのです。


 神の愛は私たち人間一人一人に、いや動物たちにも植物にも宇宙全ての存在に常に注がれています。しかしそのことに私たちが気付かないのであれば、その愛は成就しません。ザクヘイは木に登ったからイイススに愛されたのではありません。木に登ったからイイススの愛に気付いたのです。ザクヘイの物語は私たちの人生にも繋がっています。人生の目的を見失ってさまよい、むなしさに心寒くするとき、イイススに会ってみようと思い何か行動するのならば、きっと私たちは神から注がれる愛に気付くはずです。その自分の思いも行動もまた神の恩寵であったと気付いたときに、私たちの心には感謝と歓びが溢れ、イイススの「今日救いがこの人の家に来た」という言葉が聞こえるのです。

​エッセイ
​「五百羅漢」

 盛岡教会から少し離れたところに「報恩寺」というお寺があります。このお寺は「五百羅漢」という木像で有名です。先日散歩がてらお寺を訪れ、中を見学させてもらいました。


 羅漢とは仏陀(お釈迦さま)の弟子で、悟りを得た聖者たちのことです。五百羅漢にはそんな羅漢たちの像が何百体も並べられています。それはなかなか見ごたえのある景色だったのですが、見渡してみるとあることに気付きます。羅漢たちが皆笑顔なのです。穏やかに微笑んでいるもの、歯を見せて大笑いしているもの、隣の羅漢と目を見合わせて面白そうにしゃべっているもの、笑顔の種類は様々ですが、概ねほとんどの羅漢たちが楽しそうに過ごしています。お坊さんに「みんな笑顔なんですね」と聞いてみると、「そうなんです。この方々はもう悟りを開いていて、苦しい修行をしたり悲しんだりという段階を過ぎた方々なので、全ての事柄が穏やかで楽しく受け入れられるんです」とのこと。なるほどな、と感心したわけです。


 仏教の悟りとキリスト教の救いは、比べればその内容は全く異なるものです。自分自身を含めたあらゆる全てが現象の移り変わりであることを知り、移り変わる物事への執着を離れることが悟りであるとする仏教の教えに対し、キリスト教は自分を含めたあらゆるものが神の愛によって創造されたかけがえのない実在であるとします。この世のすべての物事の中に神の善性を認め、その創造の働きの素晴らしさを讃美し、神に感謝するのがキリスト教徒の理想の生き方とも言えるでしょう。このようにキリスト教と仏教は世界の捉え方はまるで違うのですが、その一方で羅漢たちの笑顔は私たちにも通じるものがあるように感じられました。


 私たちが苦しんだり悲しんだりするのは、物事が思い通りにいかないからです。自分の望みと異なる結果に苛立ち、悲嘆するのは、実は心のどこかで「物事は自分の思い通りになるべきだ」と考えているからです。私たちが神に祈るときにも「○○が叶いますように」と祈っていないでしょうか。それが悪いわけではないですが、しかしそのような願いはしばしば叶えられません。主が私たちに教えた祈りは「爾の旨は天に行わるるが如く地にも行われん」です。神の御心の完全さを信頼し、その思いがこの地上で実現しますようにというのが私たちの本来の祈りであるはずです。そして、私たちがこの境地に達したならば、やはり私たちもあの羅漢たちのように全ての物事を受け入れ、穏やかな笑顔でいられるようになるのではないかと思うのです。


 現実は厳しいです。疫病も戦争も天変地異も、そうやすやすと受け入れられないようなことばかりです。しかしそれでも、私たちが神をより頼み、心の底から神に委ねることができたときに穏やかな笑顔がもたらされるであろうことは忘れたくないものですね。

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