​不来方から

​不来方から

盛岡管轄区の教会報「不来方から」の一部の記事を抜粋して掲載します。

3月号
​巻頭
「神よ我を憐れみ、我を憐れみ給え」

 大斎は復活祭に備え、節制と痛悔に取り組む時期です。全体を通して痛悔の思いに貫かれている大斎ですが、特にそれを色濃く感じられるのは、大斎初週に行われる「アンドレイの大カノン」かもしれません。7-8世紀にクレタ島の主教だった聖アンドレイは痛悔の祈りを「カノン」という形式で綴りました。このカノンは今日に至るまで正教会で祈られ続けています。そこには様々な聖書のエピソードが織り込まれており、アンドレイは「私は旧約の悪人達のように罪深く、逆にまったく義人に倣うことのない罪人である」と祈りの中で嘆きます。

 旧約聖書には様々な人々が登場します。最初の人間であるアダムとエヴァは、神の言いつけに背き、罪人としてこの苦しみの多い世界を生きていくことになりました。二人の息子であるカインは弟を殺め、その子孫の罪はさらに膨れ上がりました。モイセイがイスラエル人を率いて荒れ野を旅していた時も、人々はしばしば神に背きました。ダヴィド王もソロモン王も神に愛された偉大な王でしたが、一方では情欲に負けて愚かな罪を犯しました。その後に続く歴代の王たちも、本当の神を離れ偶像の神を拝み、神を悲しませました。


 しかしそのように人々が神に背く中、正しい人々は信仰を守り通しました。あるいは自分の罪深さに気付き、大きな嘆きとともに神に立ち返る者もいました(先ほどのダヴィド王などはその典型です)。また神に選ばれ人々の過ちを正す預言者もしばしば現れました。そのように悪と善のせめぎあい、あるいは人間の罪と悔い改めの繰り返しの歴史が旧約聖書には記されており、アンドレイのカノンはそれらを切り口に私たちを痛悔の気持ちへと導きます。

 さて、とは言ったものの、私たちの心の中には、アンドレイが表現したほどの痛悔の思いがどれほどあるのでしょうか。自身を旧約の悪人達よりなお罪深いと切々と綴ったほどの罪の痛みが、私たちにはあるのでしょうか。「私たちは罪人だ」「罪を悔い改めなければならない」と教会は教えますが、それが果たして私たちの心に実感を伴って受け入れられているのでしょうか。残念ながら私たちの心は罪に対してきわめて感覚が鈍っているのです。私たちよりよっぽど優れた信仰を持っていたはずのクレタのアンドレイがこんなに嘆いているのに、私たちにはその嘆きが分かりません。それは私たちに罪がないから分からないのではなく、私たちが自分の罪に「気付いてもいない」から痛みが無いのです。体の痛みは体の不調や怪我を教えてくれます。痛みがあるから、私たちは病気や怪我の手当をし癒しを求めます。痛みは人間を死の危険から救うシグナルなのです。ではもし心が罪の痛みを感じないのならばどうなってしまうのでしょうか。私たちの心が霊的な死に瀕していてもそれに気付けないことは恐ろしいことです。そんな「罪の不感症」に陥っている私たちはいったいどうしたらいいのでしょうか。

 それは祈ることです。痛悔の心があるから祈るのではなく、痛悔の心が無いから祈るのです。「罪がないはずはないのだけれど、それが何だか分からない、鈍感な私に痛悔の心を与えて下さい」という祈りもまた大切な祈りなのです。


 そのような祈りをするのに最もふさわしいのが大斎の祈祷であり、アンドレイの大カノンです。正教会には決められた祈りの形と祈りの言葉があります。また全身を使って祈りの心を表現します。たとえ自分の心に本心からの祈りが無かったとしても、まずはそこで行われている祈祷に自分を添わせていくことで、徐々に祈りが身に付いていくものです。床にひれ伏すほどの悲しみが無くとも、皆と共に聖堂に膝をかがめながら祈りを繰り返す中で、少しずつ心に痛悔の思いが芽生えてくるのです。一回一回では大きな変化はないかもしれません。しかし長い大斎全体で、あるいは毎年大斎の祈りを繰り返すことで、少しずつ私たちの心に祈りが染み込み、やがて本当に心からの痛悔の思いを手に入れることができるでしょう。


 罪の痛みを知り、痛悔の思いを持った私たちの心は、アンドレイのカノンで語られる旧約の人物たちを他人には思えなくなってくるはずです。彼らの罪は自分の罪であると分かります。アンドレイの嘆きが自分の嘆きとなるのです。
しかしそれは苦しいだけの嘆きではありません。心が罪に対して干からびて何も感じなくなっていることより、よほど健康で瑞々しい。痛悔の痛みと苦しさは裏を返せば赦しの喜びと清々しさなのです。
今年も大斎がやってきます。ともに祈りの時を過ごしませんか?

エッセイ
​「この気もちはなんだろう」

 詩人の谷川俊太郎さんに「春に」という作品があります。合唱曲にもなっていて、私と同じくらいか、あるいは若い世代は学校で歌ったことがある人もいるかもしれません。少し長いですが全文を紹介します。

この気もちはなんだろう
目に見えないエネルギーの流れが
大地からあしのうらを伝わって
ぼくの腹へ胸へそうしてのどへ
声にならないさけびとなってこみあげる
この気もちはなんだろう
枝の先のふくらんだ新芽が心をつつく
よろこびだ しかしかなしみでもある
いらだちだ しかもやすらぎがある
あこがれだ そしていかりがかくれている
心のダムにせきとめられ
よどみ渦まきせめぎあい
いまあふれようとする
この気もちはなんだろう
あの空の青に手をひたしたい
まだ会ったことのないすべての人と
会ってみたい話してみたい
あしたとあさってが一度にくるといい
ぼくはもどかしい
地平線のかなたへと歩きつづけたい
そのくせこの草の上でじっとしていたい
大声でだれかを呼びたい
そのくせひとりで黙っていたい
この気もちはなんだろう

 春を迎えた詩人が、その空気、そのエネルギーに触れたときに胸にこみあげる「この気もち」はいったい何なのだろうか、と詠嘆しています。私たちの住むこの世界にはエネルギーが満ち満ちています。特にそれは長い冬が終わり、春が訪れた時に、植物の新芽や暖かな風、萌え出る緑の内から感じられます。

 教会的に言うならば、これはまさにこの世界に神が生命の息吹を吹き込んでいることの証拠です。神・聖神は生命を施すものとして、天地創造の時以来、この世界を覆い育んでいます。そして神から生命を与えられた存在である私たち人間は、あらゆる被造物に吹き込まれた神の働きを感じ、その尊さに心を動かされる感性を与えられています。人間にとって普遍的なこの感動は「声にならないさけびとなって」私たちを衝き動かすのです。

 私たちはこれから大斎を迎えます。大斎は決して陰鬱で重苦しい時期ではありません。私たちの心にこびりついた汚れを落とし、柔らかく瑞々しい感性を取り戻し、神との触れ合いに精神を研ぎ澄ませていく期間です。大斎は私たちの心の春です。暗い罪の重さ、冷たさを脱ぎ捨て、神の穏やかで暖かなエネルギーに触れる季節なのです。

「この気もちはなんだろう」詩人の問いかけに私たちはこう答えます。「それは神と触れ合う喜びなのだ」と。