​不来方から

​不来方から

盛岡管轄区の教会報「不来方から」の一部の記事を抜粋して掲載します。

7月号
​巻頭
「神の光栄を望むを以て誇となす」

 復活祭期が終わり五旬祭を過ぎると、教会はいわゆる「日常の暦」の中に戻っていきます。その祈りの暦の中で、最初に読まれることになる使徒の書は、聖使徒パウェルによるローマ人への手紙です。この手紙はギリシャに滞在中のパウェルから、当時ローマ帝国の首都であったローマ市に住むキリスト教信徒に宛てられました。


 パウェルはこの手紙の中で再三「神を信じることで人は義(正しい者)とされる」と繰り返します。従来ユダヤ人たちは神から与えられた「律法」を守ることができているかどうかで「義」か「罪」かが分かたれると信じ、律法に従うという「正しい行い」によって救いを得ようとしていました。パウェルはそれに対し「誰も律法を完全に守ることなどできないし、それによって救われる者など誰もいない。むしろそのことを人間に痛感させるために律法が与えられたのだ」という趣旨のことをこの手紙の中で述べています(主に7章)。


 それでは誰が救われるのか。人間自身の行いは、一人一人の罪の重さに対して無力であり、正しいことを知っていたとしても「望む善を行わず、望まない悪を行(7:19)」ってしまいます。そんな人間の弱さ、罪深さを憐れみ、神みずからが人間の一員となって罪から救い出そうとしてくれた、それがハリストスであり、その神の憐みを信じる者が「義」とされるのだとパウェルは言います。では「信じる」とはどういうことなのでしょうか。


 「神を信じる」とあらゆるキリスト教は簡単に言いますが、それが具体的に何を示しているのか、これはしばしば多くの人を悩ませます。「私は神を信じます」と宣言すればいいのでしょうか。しかしそれでは結局神の「何を」信じているのかも分からないし、言葉の上辺だけの信仰宣言のようにも感じてしまいます。何をもって「神を信じる」ことになるのかが分からなければ「信じる者が義とされる」という言葉は、虚しく空中をさまようだけのものになってしまうでしょう。


 「何を信じるのか」。それは言い換えれば「何を希望とするのか」、ということです。私たちが決して楽なことばかりではない人生を生き抜いていくときに、何を頼りとして生きていくのかということです。それは「神は人間をはじめ世界のすべてを愛し憐れんでおられる」という希望です。たとえ罪深い者であっても「これは不良品だから捨ててしまおう」と、神は決してそのような判断をされる方ではありません。本人が自分の過ちに気付き、修正しようと悪戦苦闘し、苦闘の末についに神を求めるその時を常に待ち望んでおられる方が神です。今まさに悪の中に耽溺し堕落している人間の側にも神はいるし、罪深さから変わろうともがき苦しんでいる人間の側にも神はいるし、神の恵みを知り喜びに満ち溢れている人間の側にももちろん神がいます。それを希望とすることができれば、知ることができれば、そして信じることができれば、その人は自分の罪深さに怯え、押しつぶされることはなくなります。罪との苦しい戦いを神がそばで見守っていてくださるからです。


 その神の愛を信じ希望とする人間は、他者を愛する人間となることができます。自分が神から愛されているならば、同様に全ての人間が神から愛されており、その人々を粗末に扱うことはできなくなるはずです。パウェルが「兄弟愛をもってたがいに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れたものと思いなさい(12:10)」と言っていることの意味です。もし他人を悪人と裁き、侮り、ののしり、呪うならば、それは神の大切な存在を傷つけることです。このようなことは神の愛を希望とし信じる者にとってふさわしくありません。他者への愛の欠如が、自分自身の不信仰を暴き出してしまうのです。


 もとより私たちは「行い」において正しいものではなく、「愛」も全うできず、実は「信仰」においても正しいものではありません。それでも神は私たちを見捨てていないと希望を持つこと。この苦しみと希望の果てにこそキリスト者の人生の意味があるのかもしれません。希望を信じてともに歩いていきましょう。

エッセイ
​「私」

 今から数年ほど前でしょうか、テレビで歌番組を見ていたら元AKB48の前田敦子さんが「君は僕だ」という楽曲を歌っていました。その後別の歌番組でゲスの極み乙女というグループの「私以外私じゃないの」というタイトルの歌が紹介されていました。はて、君は僕なのか、私以外私じゃないのか。


 これは古来、洋の東西を問わず多くの思想家、哲学者を悩ませてきた問題です。「私は誰?」「あなたは誰?」。「私とあなた」はまったく別個の存在なのでしょうか、それとも同じ存在なのでしょうか?創世記によればアダムはたった一人の人間として神に創造され、彼は生き物たちの中に自分と同じ存在を見つけることができませんでした。そこで神はアダムを眠らせ、そのあばら骨を取り出し女=エヴァを作り出しました。エヴァと出会ったアダムは「これこそ私の骨の骨、肉の肉」と大喜びしました(創2:20-23)。まさに「君は僕だ」という喜びです。


 一方で、人間は一人一人が個別のものとして存在し、固有の意志を持ちます。人が何を思い、何を望み、何を喜び、何を悲しむかはその人自身に委ねられています。それぞれの人間の自由意志は何者にも(神にさえ!)犯されず、自分自身は自分自身以外の何者でもありません。「私以外私じゃないの」です。


 「どちらが正しいのか」いいえ、「どちらも正しい」のです。神において、この二つの命題はともに真であり、論理的に両立しないはずのものが両立します。「父と子と聖神」の至聖三者は全く独立した「三者」でありながら、三位一体の「唯一」の神です。神の似姿として造られた人間もまた、まったく別個の存在である他者と、まったく同じものとして一致する可能性が開かれています。この二つの命題の隔たりをつなぐ力が「愛」です。愛が無ければ人間は全く別々なものとして、誰とも交わりを持たず、孤独なものとして分断されていきます。あるいはお互いの尊重を欠いた「偽の統合」の中で、まったく個性の無い組織のロボットとして、集団に飲み込まれていくかもしれません。愛があるから、一人一人の人間の個性が完全に発揮され、お互いに尊重しあい、それでいてひとつのものとなる喜びを分かち合うことができます。たとえ一人一人がそれぞれ固有の意志を持っていたとしてもです。


 私たち一人一人が別個の人間であるということは神から与えられたとてつもなく大きな恵みなのです。私たちは神の一部分ではないし、まして他人の一部分でもありません。「私以外」に「私」と名乗れる人はおらず、神はすべての一人一人の人間の存在を祝福しています。しかし同時に「君は僕だ」と言い切れるほど他者と自分を寄り添わせ、一致させることができるのも神の恵みです。「君は僕」「私以外私じゃない」どちらも尊い神からの賜物なのです。