​不来方から

​不来方から

盛岡管轄区の教会報「不来方から」の一部の記事を抜粋して掲載します。

3月号

​巻頭

快楽の苦きを避け、斎の甘きを楽しみて世世に存えよ」

 今月の半ば、3月15日から、私たちはいよいよ大斎を迎えます。大斎と受難週、準備週間と合わせて50日余りの期間、私たちは食事の節制を行います。具体的には断肉の主日以降獣肉、鶏肉をつつしみ、乾酪の主日を過ぎ大斎に入れば、卵や乳製品を(場合によっては魚肉や食用油、酒なども)節制します。ではなぜ復活祭の準備として、私たちは食物の節制を行うのでしょうか。大斎の意味とは何なのでしょうか。

 まず間違えてはならないのは「それらを食べることが罪」だからではありません。聖使徒ペトルに幻によって示されたように、私たちが食べてはならない汚れた食品というものはないからです(聖使徒行実10:9-16)。また斎は自分の肉体を痛めつける修行でもありません。自分を苦しめ陰鬱な顔で斎を行うことを主は厳しく戒めています(マトフェイ6:16)。私たちが食べ物の節制をするのは「禁止事項」や「苦行」だからではなく、もっと実践的に自分を神との交わりに近づけるための手段です。

 一つには肉や卵、牛乳などの、いわゆる「精が付く」食べ物を避けることで、私たちの体の余分なエネルギーを落とし、祈りに集中しやすくします。これは極めて実践的な手法であり、例えば正教会以外でも禅宗のお寺などでは肉や魚はもちろん、ニンニクやネギなども断つそうです。肉体への関心を弱め精神的な集中力を高くし、祈りの感覚を磨くためにこれらの食品を避けることは効果的であると、古今東西を通じよく知られてきたのでしょう。

 また私たちが斎をすることにはさらに深い意義があります。私たちは普段食べたいものを食べたいときに食べ、ほしいままに振舞いがちです。食べることそのものはもちろん悪いことではありませんが、その「食欲」を好き放題に放置していると、やがてもっと大きな欲望(過度な物欲や性欲など)が生まれたり、怠惰さに捕われたり傲慢になったりします。肉体や心の欲するものをなんでも与えて甘やかしていると、身体だけでなく精神までたるんでしまうのです。食べ物の節制をすることで私たちは食欲の制御を学び、それを通じてほかの欲望の統制も行うことができるようになります。


 かつてイイススが悪霊を追い出した時に弟子たちに「このようなたぐい(悪霊)は祈祷と斎によってしか追い出すことができない(マトフェイ17:21)」とおっしゃいました。斎を通じて統制を学んだ人間の心を悪魔は嫌います。

 しかし斎をすることの最も重要な意義は、実は「失敗すること」こそにあると言えるでしょう。食べ物の節制をするつもりだったのに、つい美味しそうなメニューに負けてお肉を食べてしまった。お酒は日曜日だけと決めていたのに、ついつい言い訳をしながら飲んでしまった。そのような失敗こそが斎をすることの一番大切な意味になります。もちろん最初から失敗を目指せということではありません。自分で「頑張って斎をしよう」と決めたにもかかわらず、それを破ってしまったときに、私たちは初めて自分の弱さやだらしなさを痛感し、謙虚な気持ちを得ることができます。もし何の苦も無く斎に成功し「俺は斎をやり切った立派なクリスチャンだ」などと思ってしまったら、むしろそれはもっとも質の悪い「傲慢」の罪に繋がってしまいます。むしろ「神との交わりのためと斎を始めたのに、結局自分の欲望に負けてしまった。自分は自力では何もできない」と痛感すればこそ、斎がうまくいったときには「これは神が助けて下さったからこそできたのだ」と謙虚に感謝することができます。

 大斎は戒律ではありませんし、食べ物の節制は宗教的義務でも苦行でもありません。しかし大斎の祈りと節制を通じて(あるいは失敗を通じて)私たちは自分自身の心の動きや弱さを把握し、神こそが私たちを支えてくれる方であると知ることができるようになります。パスハに向けて斎をしてみませんか?食べ物を節制し、数多くある大斎の祈りに参祷して初めて得られる体験や自分への気づきがあるはずです。そのような斎を行って迎える復活祭の喜びは特別に大きなものとなることでしょう。

エッセイ
​「姿勢」

 昔から肩凝り性で、いつも首筋がゴリゴリしています。普段からストレッチをしたり、あまりに凝りがひどくて痛みがある時はマッサージに行ってほぐしてもらったりしているのですが、いつの間にかまた肩凝り状態に逆戻りしてしまいます。


 肩凝りの原因は姿勢の悪さにもあるそうです。以前首の筋を寝違えたときに、整骨院の先生に「体の左右のバランスが悪く背骨が歪んでいるから筋肉に変な緊張があり、特に脇の筋肉が突っ張ると首筋の痛みとして出るよ」と指摘され驚いたことがあります。結局この肩凝りとサヨナラするためには姿勢の改善が必要だということですね。

 さて、私たちの心にもしばしば癖になったような痛みが襲う時があります。人それぞれ、怒りっぽかったり、すぐに意気消沈してしまったり、調子に乗りすぎて恥ずかしい思いをしがちだったり、些細な不安にさいなまれやすかったりします。そういう人の心の癖のようなものは、私たちを悩ませる肩凝りや腰痛などに似ているかもしれません。イヤだなあ、治したいなぁと思ってもなかなか取れない凝りのように、私たちの心の悪癖もなかなか解消することができません。いずれも根本的に治すためには「基本的な姿勢の改善」が求められるのです。つい猫背になってしまうように、いつも片足に体重を乗せて立ってしまうように、私たちの心もつい慣れ親しんだ歪んだ姿勢を取ってしまいます。いつも自分と人を比べてみたり、批判的な目線に囚われたり、愚痴っぽかったり、自分に甘かったり、そのような姿勢です。たまにふと思い出したかのように背筋を伸ばしてみても、しばらくするとまた猫背に戻ってしまう、そんなことの繰り返しです。ダメだな、と思ってはいるのですけれど、なかなか身に付かないものです。

 これから私たちは大斎を迎えますが、大斎は心の姿勢改善期間、心の筋トレ期間と捉えることができます。私たちの心の姿勢の歪みやバランスの悪さをチェックして改善します。クリトの聖アンドレイやシリアのエフレムはそんな私たちの鍛錬を支えてくれる良きトレーナーです。彼らの言葉によく耳を傾けると、自分の心の姿勢の悪さがまざまざと見えてきます。節制をし、祈りを重ね、良き姿勢を目指して頑張ります。そして逆説的ですが、自分の努力だけではどうしても背筋が伸ばせないことに気付き、悪い姿勢から逃れられない自分の姿について、神の憐みを心から求めることができたとき、実は私たちは最も美しい姿勢を取っているのです。

 それでは良き大斎を過ごしましょう。