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​不来方から

​不来方から

盛岡管轄区の教会報「不来方から」の一部の記事を抜粋して掲載します。

12月号
​巻頭
「視よ、我等の救いの時は近づけり」

 11月の末から私たちは「聖使徒フィリップの斎(ものいみ)」と呼ばれる期間に入っています。正教会の暦では年に4回大きな斎期間があり、フィリップの斎はそのうちの一つで1月7日の降誕祭まで40日間続くものとなります。斎の意義というのは様々な切り口から語ることができますが、特に「待ち望む期間」としての斎は重要です。降誕祭が救世主の誕生、神が人となってこの世に入られたことを記憶する祭日ならば、この斎は苦しい世界の中で救世主を心待ちにする期間と位置付けることができるでしょう。40日という日数も象徴的です。かつてノイ(ノア)の時代、神が人間を滅ぼすために降らせた雨は40日40夜続きました。またモイセイ(モーセ)がイスラエルの民を率いてエジプトを脱出したとき、約束の地であるカナンに入るまで40年の歳月を荒れ野で過ごしました。イイススはヨルダン川でイオアンから洗礼を受けた後荒れ野で40日間にわたり悪魔からの挑戦を受け続けられました。教会の歴史の中で40という数字は耐え忍ぶ時間とともに記憶されています。


 イイススが生まれた当時、ユダヤの人々は救世主の到来を待ち望んでいました。当時ローマ帝国はシリア、パレスチナの一帯を支配し、ユダヤの人々はその統治下に置かれていたからです。彼らはローマを追い払いイスラエルを神の国として栄光の中に独立させる、かつての士師たちやダヴィド王のような新しい指導者を求めました。彼らのメシアを待ち望む気持ちが私たちの降誕祭前の斎には込められています。しかしそれはユダヤの人々の願いよりも遥かに大きく意義深いものとして。


 圧迫され救世主を待ち望むのはイスラエルの人々だけでしょうか。違います、全ての人々の救いの為に救世主はやってきます。敵はローマ帝国なのでしょうか。それも違います、人間の本当の敵は人間を罪と死に縛り付ける悪そのものです。救世主とは政治的、軍事的な指導者なのでしょうか。全く違います、誰よりも弱く小さい赤子となった神その方であり、力ではなく愛で、復讐や制裁ではなく赦しで世界を救う方です。私たちの斎は、イスラエルの人々がメシアを待ち望んだ気持ちをなぞりつつ、しかしそれを大きく越える待望として行われるものです。40日間の節制を通じて、私たちは人間の辛さ、苦しさを改めて自覚し、その耐え忍ぶ気持ちの中で救世主を待ち望む気持ちを育みます。


 世間では11月に入ったころからクリスマスムードが現れ始め、みんな愉快で陽気なパーティとしてのクリスマスを待ち望んでいます。たくさんのご馳走、嬉しいプレゼント。どれも素晴らしいものです。しかし私たちが降誕祭を待ち望む気持ちとは、もともとはそのようにただ幸せなイベントを楽しみにするようなものとは違うのです。病気は流行り、世界中で戦争が起き、それに伴って人心は乱れ、一見豊かで平和に見える国々でも人々の分断と亀裂は深まるばかり。そのような世界の中にあって、「私には神よ、あなたがいなければまともに生きていくことはできません」と呻き縋るような祈りの声が救世主の到来への待望であり、切実な願いなのです。そのことをこの40日間の斎を通じて学びたいものです。

​エッセイ
​「真似事」

 徒然草は鎌倉時代末期に書かれた古典随筆です。古文ということで学校の授業以来触れずに来た人も多いかもしれませんが、その内容は俗っぽくもあり、シニカルでもあり、一方で人間性の本質をえぐるような描写も多く、読んでみると案外面白いものです。その徒然草の中に実に興味深い一節があります。

「狂人の真似といって大通りを走ったら、それはつまり狂人である。悪人の真似といって人を殺したのならば、それは悪人である。(中略)しかし偽りや真似事でも賢者の真似をするのならば、それは賢者の道である」

「本当の内面は違うけれど○○の真似」をするならば、結局それは○○である、という指摘です。これは私たちにとってとても重要な事柄です。なぜならば私たちがキリスト者として生きるときに、自分が本当に本質的に本心からキリスト者的な人物であると言える人はおそらく皆無だからです。自分の心をしっかりと見つめてみれば、自分の中にある弱さ、怒りっぽさ、嫉妬深さ、欲深さ、ずるさ、怠惰さなどが見えてきます。それらはおよそキリスト者にふさわしいものではありません。教会で「洗礼とは新しい自分に生まれ変わることです」と言われても、洗礼を受けたところで結局実質的な内面はなにひとつ変わらず元のままであることに愕然とした方もいるかもしれません。表に「キリスト教徒」「正教徒」という看板を掛けて、それだけで自動的に立派な人間になるのならば、世界はもっと平和で穏やかな場所であるはずです。しかしご存じの通り残念ながらそうはなっていません。


 しかしもし私たちの内面がいかに弱く愚かでも、せめて真似事でも正しいキリスト者のように振舞うのならば、それはキリスト者として生きるということです。同じ弱く愚かな人間であるのならば、真似事すらしないよりは、真似事でも正しく生きるほうがマシとは言えないでしょうか。私たちには手本とするべき聖人たちがいます。聖人の生涯やエピソードを学ぶと、キリスト者として生きるとはどういうことか分かってきます。おそらく聖人たち自身も、自分は弱く愚かな人間であると思い、せめてハリストスや聖人たちの生きざまを真似てみようと必死に生きた人たちです。「善人ぶっている」「浅はかな真似事」「偽善者」と後ろ指をさされながらも「善人の真似」に徹してきた人は、やがていつの間にかそれが真似ではなくその人の内面からにじみ出てくる本質となります。


 そして「何を真似るべきか」を知るために私たちは良く学ばなければなりません。ハリストスはどのような人間像を私たちに示したか、聖人たちはどのように振舞ったか。真似るべき姿を見誤ってはなりません。それを知るためによく聖書を読み、聖人伝に親しみましょう。私たちのキリスト者としての歩みは真似ることから始まります。そう、神は人間を「神によく似たもの、よく似ていくもの」として創造したのですから。

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