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​不来方から

​不来方から

盛岡管轄区の教会報「不来方から」の一部の記事を抜粋して掲載します。

10月号
​巻頭
「我が羊を牧せよ」

 先月、私たち日本の正教会は教会を導く新しい首座主教「東京の大主教全日本の府主教」としてセラフィム府主教座下を得ました。この機会に教会にとって「主教」とは何なのか考えてみたいと思います。


 そもそもハリストスが弟子たちを率いて地上で活動していた頃、またハリストスが昇天し、聖神降臨の出来事があった直後の時期には「主教」という役職は教会にはありませんでした。当時の教会の指導者はハリストスから直接教えを受け、ハリストスの復活を目撃した「使徒」たちでした。その頃のキリスト者たちは世の終わり、すなわち主ハリストスが再びこの世界に降臨し世界を裁く「終末」がすぐに訪れると信じていました。しかし主の再臨の計画は私たち人間には明かされておらず、意外にも最後の審判の時はまだまだ訪れなさそうだとキリスト者が気付いたときに一つの問題が浮上しました。それはこの「ハリストスの福音」を伝える主の教会をどのように次の世代に伝え、維持していくかということでした。ハリストスを直接見聞きした使徒たちも、ある者は捕えられ殉教し、ある者は高齢になってこの世を去ります。使徒たちが主から直接受け継いだ、教会の信徒の牧群を導き、機密を執行し、福音を伝えるという役割を誰に委ねていけばいいのかという問題に教会は直面したのです。そこで教会は信徒の中でふさわしいものを選び、使徒がその人物に按手(頭に手を載せること)して、彼に使徒の職務を全うする祝福が与えられるよう神に祈りました。このようにして立てられた、使徒の次の世代の指導者が「主教」と呼ばれて教会を率いていくことになります。その選ばれた主教たちもまた、次の世代の主教を選び、神の祝福を祈り、さらに次の主教を立てていきました。このハリストス、使徒、主教と連綿と繋がる大きな流れを神学用語で「使徒の継承性」と呼びます。私たちが所属し、私たちが集い祈るこの教会は、元をたどっていけばやがてハリストスに繋がるということを根拠としてその正統性を保証されます。私たちの主教とは使徒たちがハリストスから受け継いだ、教会を導く恩寵をいただき、教会を地上における神の国の先駆けとする役割を担う方なのです。


 日本正教会は19世紀にロシアから聖ニコライがやってきたときにその歴史が始まりました。最初司祭として来日したニコライはやがて主教に任じられ、日本の牧群を率いていくことになります。その後、様々な国家的な困難や政治的な混乱に見舞われてきましたが、日本の正教会はある時はロシアから、ある時はアメリカから、また現在は日本人の主教をいただき今日まで至ります。日本正教会を率いてきたいずれの主教も、正しく使徒から継承された主教職をもって日本正教会を指導、統治されてきました。主教職とは決して政治的なものでも感情的なものでもなく、使徒から教会の正当性を引き継いでいるということで担保されるものです。私たちが主教に敬意を払うのは、目の前にいる主教の後ろに、長く連なる主教たち、使徒たち、ハリストスの姿を見るからです。


 今日本正教会に新しい首座主教が生まれたということは、ハリストスを根とする使徒の大きな木の、日本という枝の末端に新しい芽が萌え出たということです。セラフィム府主教座下の率いる日本正教会の新しい時代が、神によく守られ恵み豊かに発展していく時となるよう私たち信徒は熱心に祈りましょう。「いくとせも!」

​エッセイ
​「塩」

 最近、料理を始めました。もともと料理は好きだったのですが、久しくやっていなかったのです。特に昔はあまり作らなかった和のおかずが美味しくて。少し歳を取って味覚が変わったのかもしれません。


 和の食事を作るときに大切な作業に「出汁を引く」という工程があります。普段はだしの素を使って手を抜きますが、たまに良い食材を扱う時には(今年は松茸とか!)ちゃんと昆布から出汁を取ったりします。で、昆布と鰹節で引いた出汁を単独で味見するとどうでしょうか。あれ、別に美味しくもなんともないんですよね。「海の味だなぁ」と思うばかりです。水っぽくて、味気なくて、磯の香りだけがするお湯。しかしそこに塩を一つまみ入れると……。いきなり味わいが花開きます。塩味が入ることで、特に美味しくない変な匂いのお湯が、突然複雑で芳醇な味わいのスープに変身します(ちなみにだしの素にはちょっと塩が入っているので最初から美味しいです)。塩という調味料がいかに食材の旨味を引き立たせるのかがよく分かります。


 さて、福音書でハリストスは付き従う人々に「あなたたちは地の塩である」と語ります。当時塩は生活必需品である一方で貴重品でもありました。塩分は食品の保存性を高め腐敗を防ぎます。また生物にとって塩分は欠かすことのできないミネラルでもあります(ナトリウムイオンは神経伝達に関わる重要元素)。塩という譬えにはいろいろな切り口がありますが、私はこの「食材の旨味を引き出し料理を完成させる」という性質がとても重要だと考えます。神は世界を創造し、そして人間を創造しました。それは大変素晴らしいものです。そしてその素晴らしい世界に神ご自身が降誕し、主、神ハリストスは世界に福音を伝えました。その福音を信じ付き従う私たちが地の塩であるのならば、私たちにはこの世界を「美味しくする」という責任があります。「腐らせない」という責任もあるかもしれません。私たちキリスト者の味わいは「信仰、希望、愛」であり、私たちがその喜びをもって生きることで、周りの人々や世界にその味わいを広げていくことができるでしょう。塩味が加わることによって素晴らしい食材がさらに美味しい料理として成就するように、私たちキリスト者は世界を味付けする役割を求められています。それは何も強引な宣教をしたり、狂信的になれということではありません。キリスト者として、ハリストスが教えた愛を隣人に示し、神から与えられた人生を喜んで生きましょう。妬みや、不満や、恨みは味を悪くします。私たちの生き方が世界の味わいを決めるのです。私たちは神という天才料理人の手の中に握られた一つまみの塩です。料理が美味しくなるのも不味くなるのもこの塩にかかっています。


「あなたたちは地の塩である」という主の言葉、じっくりと噛みしめて味わいたいものです。

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