​不来方から

​不来方から

盛岡管轄区の教会報「不来方から」の一部の記事を抜粋して掲載します。

4月号

​巻頭

「今日嬰児は枝を執り、爾を勝利者と讃美して、爾に呼べり、ダヴィドの子にオサンナ」

 パスハの一週間前の日曜日、教会は「聖枝祭」を祝います。これはイイススがエルサレムに入城したとき、民衆が枝を手に取り、口々にイイススを讃美し出迎えたことを記憶しています。

 イイススは民衆にメシア、ハリストス、ダヴィデの子、すなわち「王」として迎え入れられました。異国での戦争を勝利で終え、数々の戦利品や捕虜たちを連れて本国に帰ってくる王や将軍は、凱旋式で民衆からの熱烈な賞賛と歓迎を受けます。イイススもまたイスラエルを復興させてくれる新しい王として彼らに褒めたたえられました。枝を手に取り、衣を道に敷き、もろ手を挙げて「オサンナ!(救い給え)」と叫ぶ姿は、凱旋将軍を迎える人々の姿そのものです。イイススの「人生」において最も華々しい瞬間であったとも言えるでしょう。

 しかし民衆の期待と、イイススが「王」である意味、イイススの「勝利」の意味には大きなギャップがありました。イイススは民衆がイメージするような「支配者であるローマ帝国を倒し」「イスラエル王国の新しい王として即位する」というものではありません。イイススの「戦い」の奥深い意義は、彼らユダヤの民衆には理解されていませんでした。それどころか使徒たちにも理解されていませんでした。もしかすると誰にも理解されていなかったかもしれません。

 イイススの入城の姿には実はそのギャップがすでに示されています。イイススが乗ったのはロバの仔でした。ロバは馬の仲間ですが、馬よりも小さく鈍重で、戦に使うことはできません。むしろ普段の平和な生活の中でこそ役に立つ家畜です。凱旋将軍であれば普通は馬にまたがるか、馬の引く戦車に乗って入城してくるはずです。しかしイイススは違いました。平和そのもののような呑気なロバに乗って入ってきたのです。また大斎が始まる最初の週に読まれる旧約聖書、イサイヤの預言書ではメシアの支配について、「剣を打ちかえて鋤とし、その槍を打ちかえて鎌とし、国は国にむかって剣をあげず、彼らはもはや戦いのことを学ばない(2:4)」とあります。イイススの戦いは決して異邦人を武力で征服する戦いではありません。

 そのギャップに気付き失望した民衆たちがどうしたか、ということは聖枝祭に続く一週間「受難週」で語られます。彼らは枝を鞭に持ち替え、讃美に代えて罵倒の声でイイススを非難しました。そしてローマ帝国のユダヤ総督であったピラトを強引に押し切ってイイススを十字架刑へと追い込んでいきます。ほんの数日前、人々から「王」として迎えられた人物が、あっという間に大ペテン師、凶悪な反逆者として殺されるのです。急転直下の出来事です。

 しかし私たちは知っています。この転落は本当の転落ではないこと。イイススがやはり敵に打ち勝つ凱旋の王であることを知っています。イイススの敵はローマ皇帝などではありません。人間を縛り死と罪に繋ぎ止める「この世の君」すなわち悪魔です。イイススが君臨するのはパレスチナの小さな王国ではありません。全世界です。イイススがもたらすのはイスラエル民族の異邦人からの解放ではありません。全ての人間を死から解放するのです。ユダヤ人たちも、使徒たちも、イイススの親しい家族たちも、誰も理解していなかったこれらのことを私たちは今知っています。だから私たちは聖枝祭において枝を手に取り「オサンナ!」と声を上げるのです。


 私たちが聖枝祭で枝を取るのは二千年前のユダヤの民衆の単なる真似事ではなく、私たちが真にイイススを本当の勝利者、本当の王として知っているからです。これから一週間の間に記憶される、主の受難と死、そして復活がイイススの本当の戦いであり、その勝利が必ずもたらされることを知っているから、イイススが死から凱旋してくることを知っているから私たちは枝を取りこの祭を祝います。

 

 この枝の祭を共に大いに祝いましょう。そしてそのあとにやってくるさらに大きな勝利の祝祭を共に祝い喜びたいものです。

エッセイ
​「苦しくたって悲しくたって」

 みなさんはバレーボールをやったことはありますか?部活動でやっていた人もいるかもしれないし、それでなくても体育の授業などで、ほとんどの人がバレーボールに触れたことがあるのではないかと思います。


 バレーボールはご存じのように、まずはサーブを相手コートに打ち込み、そのサーブをレシーブしたチームが、今度はトスを上げて再び相手コートにボールを打ち返します。この繰り返しでプレーは進みます。


 さて、とにかくスポーツというスポーツ全般が苦手だった私が体育教師に指導されたのは、「レシーブをするときに腰が高すぎる。いつも重心を低く、膝を柔らかくしてどんなボールでも反応できるようにしておかないと、急にレシーブしようとしてもうまく対応できないぞ」ということでした。そう、コートで棒立ちで待っている私は、ボールが飛んでくるのが見えてから慌てて動いて、間に合わずにボールを落としてしまうか、ボールに触れたとしてもうまく捌けず明後日の方向に飛ばしてしまうばかりだったのです。うまくレシーブするためには低い重心で素早く、ボールの落ちるところに入り込んで、着実にサーブやスパイクを処理していかなければなりません。

 これは実は私たちの信仰生活でも同じことが言えます。ギリシャ語で「謙遜」はタピノスと言い、これは「低くする」という意味を持ちます。また「忍耐」はイポモニと言い、これは「待つ」という意味を持っています。謙遜も忍耐もキリスト者にとってとても重要な心ですが、言い換えれば「重心を低くし、待つ」ということが求められているということです。バレーボールで相手のサーブやスパイクに備えるのと同じです。


 神はしばしば私たちの人生にサーブを打ち込んできます。目の前に困っている人がいる状況で「どうする?」と問われること、あるいは洗礼を受けようかどうしようか、というような大きな問いもあるでしょう。神の求めや、問いかけは私たちの日常生活の中に、まるでサーブのように飛び込んできます。その時に自分を高く見積もる傲慢な心では、神からのサーブを次々と見逃すか、見当違いの方向にボールを弾き飛ばしてしまうだけです。そうではなく、自分の小ささを知り、いつでも神の言葉を聞き逃すまいとする謙遜で忍耐のある心、すなわち「膝を柔らかく重心を低くして待つ」心だからこそ、上手に神の問いかけに反応することができるのです。

 さて、人間の中で誰よりも上手に神からのボールをレシーブした人とは誰でしょうか。それは生神女マリヤでしょう。「神の子の母となってください」という神からのとんでもない問いかけは、まさに強烈な神のサーブです。それに「そのようになりますように」と生神女が応えられたのは、生神女が誰よりも謙虚で、いつでも神の問いかけに応えられるよう備えていたからです。
生神女が名レシーバーだったことに私たちも倣いたいものですね。