不来方から
不来方から
盛岡管轄区の教会報「不来方から」の一部の記事を抜粋して掲載します。
12月号
巻頭
「光に居る主、人々の救の為に今卑くなりて
かいばぶねに臥すを甘んずる者」
降誕祭は言うまでもなく、私たちの主、神の子、イイススが救世主「ハリストス」としてこの世にお生まれになったことをお祝いする祭日です。この「生まれた」ということがこの祭りにおいては本質的に重要なことです。降誕祭のイコンを見てみると、絵の中心には白い布でくるまれ飼い葉桶に寝かされた幼子イイススの姿が描かれています。生まれたばかりのイイススは、私たちと同じく小さく無力な一人の赤ん坊でした。ある時突然に大人の姿でこの世に「降臨」したわけではありません。私たちと同じ、まったく弱く、父母の守りを必要とする小さな存在としてこの世に生まれたのです。全能の神である方が、なぜこうも弱く小さな姿を示したのでしょうか。
それは神の人間への愛ゆえに他なりません。神は人間の救済のためにこの世に入ってこられましたが、それ以上に人間への愛、あらゆる被造物への愛のゆえに、全てのことを人と分かち合いたいと思ったからこそ、完全な人間としてこの世界の一員となりました。眺めているだけでなく、自分自身も人間としてあらゆることを人間と共にしたいと望まれたのです。だからこそ全ての人間と同じように、人間の母から生まれ、か弱く小さなものとしてこの世に生を受けたのです。
初期キリスト教の時代の異端に「仮現説」という教説があります。地上に現れたイイススは、神がその力を発揮して、まるで本当に生きている人間のように見えた存在である。文字通り「仮の姿で現れた」。つまりイイススは人間ではない。このような説です。正統教会はこの説を常に否定し警戒してきました。イイススを人間ではない「何者か」にぼやかしてしまう教説を教会は決して認めません。なぜならばそれは神が「本当の人間になってしまうほど人間を愛している」ということを否定する教えだからです。
神の子が真の人となり、そしてまた真の神であり続けることにより、神は私たちと触れ合うことができる存在となりました。私たちの内に交わりを持つ存在となりました。「同じ人間である」という接点を通して、私たちのすべてと関わりを持ち得るお方が、神が人となったイイスス・ハリストスなのです。同じ人間なのだから、イイススも母の胎内に育ち、小さな赤子としてこの世に生まれました。母の乳を吸い、やがて固い食べ物を食べるようになり、何年もの時間をかけて大人へと成長しました。そして父を助け、日々の糧を得るために労働して生活したのです。私たちとまるきり同じです。きっと私たちと同じように笑い、泣き、喜んだり悲しんだりして生きてきたのです。聖書にはイイススが宣教を開始する30歳までの出来事はほとんど記されていませんが、一人の人間として私たちが生きるのと同じように生きたはずなのです。
イイススが私たちと同じ人生を歩むことによって、私たちの人生の方が神に祝福されるものとなりました。なぜならばそれはイイススが歩んだ道だからです。その人間としての人生はやがて、私たちがまだ踏み入れたことのない局面、復活と永遠の生命、天に昇ることに切れ目なく繋がっていきます。私たちと同じ道を歩んできたイイススが、今度は私たちの「先」を歩くのです。その歩みの第一歩が主の降誕の出来事であり、イイススがか弱い幼子であったことが、イイススと私たちに「人間」という繋がりがあることの証左なのです。私たちが降誕祭を祝うことの意味はここにあります。主が私たちと同じもの、私たちと関わり合いのあるものとなってくださったことを、代えがたい喜びとして祝う、それが降誕祭なのです。
エッセイ
「やさしさに包まれたなら」
今月は松任谷由実さんの曲のお話。12月のユーミンと言えば「恋人はサンタクロース」かもしれませんが、あえて「荒井由実」時代の「やさしさに包まれたなら」。ジブリ映画「魔女の宅急便」のエンドテーマとして印象に残っている人も多いかもしれません。
「小さい頃は神様がいて」。この歌の語り手は子供時代を「神さまがいて、愛を届けてくれた」と表現します。幼く無邪気な子供には神さまの愛のメッセージが届き、奇跡があって、夢がかなえられたというのです。そして歌詞には書かれませんが、一方で大人はどうなのでしょうか。日々の生活に忙殺され、心配事で頭がいっぱいになり、他人と自分を比べて一喜一憂する。そんなことが大人になるということであるなら、もはや大人には「神さまの愛」が届かないのかもしれません。いや、もっと踏み込んで言えば「神さまがいない」状態になってしまうのです。毎日がせわしなく過ぎ去っていき、ストレスやトラブルに心を削り取られ、「豊かな生活」を送る人々を羨む。満ち足りない思いに捕われ、目先のことしか見なくなった人にとって、神への思いなど真っ先に失われてしまうものかもしれません。
しかし本当にそうでしょうか。大人になったら神さまはいなくなってしまうのでしょうか。ここで語り手は「やさしい気持ちで目覚めた朝は、大人になっても奇跡は起こる」と言います。では「やさしさ」とは何か。やさしさとは「受け入れる気持ち」です。大人になると様々な経験や、あるいはこだわりなどが増えてきます。これはある意味ではその人の成長の結果でもありますが、しかし他者を拒絶する原因ともなり得ます。他者の意見が自分の意見と異なるとき、それに耳を傾けられない。自分より能力や経験が低いように思える人を侮り、その人の気持ちも考えも下らないものとして切って捨てる。世界が「自分」と「自分以外」に分断され、高く築き上げた「自分」だけが「自分」になってしまう。「自分以外」は搾取か、侮蔑か、あるいは怯えの対象でしかなくなります。他者からの愛も信じられず、自分をだまそうとする、自分から利益を得ようとする策略ではないかと疑います。それが大人になるということなら、大人とはなんて哀しい存在なのでしょうか。
しかしその哀しさは「やさしさ」によって打破されます。やさしさとは高みから「やさしくしてやる」と恵んでやるものではありません。他者に対して怯えも傲慢もなく自分を開き、招き入れ受け入れることです。子供が親の注ぐ愛を受け入れるように、他者の存在を受け入れ、相互に開きあうことが「やさしさ」であり「愛」です。
自分を開いている人には声が聞こえてきます。目を閉じ耳をふさいでいた時には届かなかった「メッセージ」が届くようになります。世界はとても美しいということ、人間はとても尊い存在だということ、そして神があなたを愛しているということ。傲慢で怯えた「自分」に閉じこもっていた時には聞こえてこなかった声が届きます。まさに「目に映る全てのことはメッセージ」なのです。