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​不来方から

​不来方から

盛岡管轄区の教会報「不来方から」の一部の記事を抜粋して掲載します。

9月号
​巻頭
「東に向かう門は現れて、大いなる司祭長の入るを待つ」

 ハリストスの生まれる十数年前、一人の女の子がイオアキムとアンナという老夫婦の間に生まれました。この夫婦には長いこと子供ができず、そのことが二人の心をずっと悩ましてきました。二人は大変に篤い信仰を持ち、いつも神に子を賜るように祈っていたそうです。神はそんな祈りを聞き届け、ついにアンナは子を身ごもり、やがて生まれた子はマリヤと名付けられました。将来神の子を生むことになる幼子マリヤの誕生を、生神女誕生祭では祝います。


 生神女マリヤはしばしば旧約と新約を繋ぐ者と言われます。旧約時代とは、神がこの世界を創造し、人間が罪に陥り、イスラエルの民が苦難を過ごしてきた歳月です。生神女はその終わりに位置します。また新約時代とは神の子がこの世界に入り、人間として生まれ、十字架の死と復活によって世界を救い、罪と死から解放し、今にまで至る時代です。生神女はその時代の始まりに位置しているともいえます。旧約の時代とは「待つ」時代でした。人間は自分自身の罪が引き寄せた悪と死に絡め取られ、苦しみの中にありました。それはイスラエルの人々が、しばしば神でないものを拝み、異邦の乱れた習俗に親しみ堕落したことや、何度も異邦民に蹂躙されて虐げられてきた旧約聖書の出来事の内に示されています。旧約聖書に記述されているイスラエルの民の罪と苦難の歴史は、そのまま私たち人間の苦しみの姿と言ってもいいでしょう。人々は罪に陥り、その一方でそれを警告する預言者たちが現れ、中には神に従う義人たちもいました。このように人々が救世主を待ち望み続けてきたのが「旧約」の時代であると言えます。イオアキムとアンナの夫婦に長く子が生まれなかったことは、この「待つ」時代の長さを象徴しています。実りのない長い時を待ち、その中でも神を忘れなかった人に救世主の到来の足音が聞こえてきます。待つ時代の終わりに位置するのが生神女マリヤなのです。


 また、生神女が神の子を産まなければ救世主の到来はありませんでした。そして生神女が神の子を産んだのは運命や偶然ではなく、神自身の意志に生神女マリヤ自身の意思が応えたからこそ実現したことでした。教会はしばしば生神女を「天の門」という言葉で讃美します。マリヤを通ってハリストスがこの世に入られたからです。そのような意味において、生神女は「新約」の始まりです。生神女の誕生とは私たちの救いであるハリストスがこの世にやってくることの礎が築かれたことを意味します。長い「待つ」時が終わり、生神女は私たちの救いの時代の始まりを開くのです。


 私たちは新約の時代に生きる者ですが、しかし旧約の人々の苦難の姿がそのまま私たちの姿であることも忘れてはいけません。歴史の時間の流れの中では、生神女の誕生も救世主の到来も「すでに起きた過去のこと」ですが、私たち一人一人の人間にとってこれらの出来事は常に「今目の前で起きること」です。私たちが罪深く、苦しみの中で救いを求めているのならば、私たちもまた旧約のイスラエルの人々と同じです。またそんな私たちは教会に集まり、ご聖体を受け、ハリストスとの一致の中に入れられます。新約聖書に登場する人々と同じ救いを私たちは得ているのです。そんな私たちにとって、救世主ハリストスを産んだ生神女とは常に尊敬と敬愛の対象です。生神女がいたから、生神女が神の呼びかけに答えたから私たちの救い主と私たちは出会うことができたのだ、と私たちは生神女を称えます。生神女の誕生は私たちの救いの礎として祝われるのです。

​エッセイ
​「原点O」

「原点O」という言葉、覚えていますか?関数をグラフにする時などに、X軸とY軸を書き、その交わった点(0,0)を示す数学の用語。もうこれだけで拒否反応が出ている方もいるかもしれませんが……。しかし座標というのは実は便利なもので、平面上のあらゆる点を「X方向に○○」「Y方向に△△」と示すことができます。そしてこの座標平面の中で最も重要な場所はどこかといえば、それは「原点O」。平面上のあらゆる場所が原点Oから見た位置関係で書き表せます。逆に言えば原点が定まっていないならば、その平面はただの無秩序な空間であり、点と点の位置関係を正確に把握することは全く不可能です。原点Oがあるから座標平面が存在できると言ってもいいかもしれません。

 さて、では私たちの人生、生活に目を向けてみましょう。私たちの人生には、その確かさを保証する「原点O」があるでしょうか。ある人にとって、それは「仕事」かもしれませんし「家族」かもしれない、あるいは「お金」という人もいるし、「自分自身」こそが「原点O」であるという強者もいるかもしれません。しかしそれらはみな本当に原点Oたり得るのでしょうか。仕事もお金も不安定なものです。家族だって、人生の中でその形は少しずつ変わっていきます。まして自分自身など自分が思っているほど強いものでも確固たるものでもありません。原点Oだと思っているものが実は「動く点P(もう数学嫌いの悲鳴が聞こえてきそうです)」だったら、私たちの人生の座標は全く定まっておらず不安定なものであっても仕方ありません。

 それではどうすべきか。私たちキリスト者が「原点O」とすべき場所、それは「神」に他なりません。自分の行いや選択がいつも「神に近いか遠いか」の基準で測られるのであれば、私たちは自分が今どのような状態にあるのか知ることができます。そして「動く点P」である自分を「原点O」に向けて近づけていくことができます。


 とはいえ「動く点P」である私たちから「原点O」の正確な場所を知ることは決して簡単なことではないのも事実です。私たちが基準とすべき「神」がどこの座標にいるのか、どのような方なのか分からなければ「原点O」が定まっていないのと同じことです。見当違いの場所を「原点O」として定めてしまっては目も当てられません。しかし私たちが祈祷に参加し、聖書を読み、主のことばを自らの内に取り入れていくことで、この原点Oの場所を絞り込んでいくことはできます。私たちの力で原点Oそのものにたどり着くことはできなくても、その場所に「漸近(ぜんきん・限りなく近づいていくこと)」していくことはできるでしょう。祈りや学びを通じ、神の愛を実践しながら「原点O」を目指していくのがキリスト者の生き方なのです。私たちの「原点O」について、今一度考えてみませんか?

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