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​不来方から

​不来方から

盛岡管轄区の教会報「不来方から」の一部の記事を抜粋して掲載します。

3月号
​巻頭
「爾の弟は死して復生き失われて又得られたる故に
我ら喜び楽しむべきなり」

 正教会の暦では復活祭に向けて40日の「大斎」が置かれますが、その大斎の前にいわば「慣らし期間」とも呼べる「大斎準備週間」が設定されています。準備週間では食品の節制が徐々に始まり、また聖書の読みや祈祷の言葉などによって大斎に必要な心構えなどがレクチャーされます。その中でも準備週間第2主日は「蕩子(放蕩息子)の主日」と呼ばれ、私たちの神に対する態度や関係性を省みさせるような福音箇所が読まれます。


 イイススは2人の兄弟のたとえ話をなさいました。真面目な兄、不真面目な弟の兄弟がおり、弟は自分が相続すべき財産を贈与されると、そのお金を持って家を出て行ってしまいます。そして彼はその財産をすべて無駄なことに消費して、ついに素寒貧になってしまいました。折悪しく弟の滞在する地方を飢饉が襲い、彼は日々の食事にも事欠くようになり、豚飼いのアルバイトをすることになりました(ユダヤ人にとって豚は穢れであり、外国人に雇われて豚を飼うなど最大の屈辱です)。弟は仕事中、豚の餌である豆のカスでもいいから食べて飢えをしのぎたいと思うところまで落ちぶれてしまいました。その時弟は初めて自分の愚かさに気付き、家に帰って父に詫びようと決心します。もう息子として扱われなくてもいい、使用人の一人として扱ってくれればそれでいいという覚悟を持って弟は家に帰ります。弟が家にたどり着こうというその時、父は弟の姿を認め、直ちに駆け寄り彼を抱きしめました。そしてみすぼらしい古着の代わりに上等の着物を着せ、ご馳走を準備させて弟の帰還を喜びました。さてそんな中、仕事を終えて家に帰ってきたのは兄でした。兄は弟が帰ってきて宴会が行われていると知って怒ってしまい、家に入ろうとしませんでした。父はその様子に気付き兄をなだめましたが、兄は「私はずっと家でまじめに働いていたのに、あなたは何の褒美もくれなかった。なのに財産をすべて無駄遣いした弟が帰ってきたら宴会をしている。これはどういうことなのですか?」と不満を述べました。父はそれに答えます「あなたはずっと私と一緒だったではないか。弟は失われてしまっていたのにそれが見つかったのだ。喜ぶのは当たり前のことだ」


 このたとえにおいて、言うまでもなく父とは神であり、父の家とは神の国を示しています。そして二人の息子はともに私たち人間の姿であり、私たちの性質を二つの側面から描き出しています。父の財産を食いつぶした弟は私たちの堕落の姿を表しています。私たちは神から素晴らしい能力や素質、いやむしろ存在するだけで素晴らしいと言えるほどのかけがえのなさを与えられているのに、それを感謝もせずに自分のためだけに人生の価値を費やしています。食べることも、欲しいものを買うことも、遊ぶことも、あるいは家族のために尽くすことも、仕事に打ち込むことも一つ一つは悪いことではありません。しかしそれを一本貫く「神に生かされている」「神の為に生きる」という芯が無いのであれば、それはこの弟の生き方と大差のない無駄遣いの人生です。また弟が生きて帰ってきたのに、それを喜ぶよりも先に「不公平だ」と憤る兄には愛が欠けています。この兄弟の姿には私たちが改めるべき人間の姿が凝縮されています。しかしこんな人間をそれでも神は愛しておられるということこそが、このたとえでもっとも肝要な部分です。堕落した者の帰還を全力で喜び、ふてくされている者の心にも優しく寄り添う神が私たちの神です。


 大斎準備週間にこの箇所が読まれるということは、これから大斎という悔い改めの期間を迎える私たちが知らなければならない事柄がこのたとえに濃厚に含まれているからです。私たちはこの兄弟の姿に自分たちを重ね合わせ大いに反省をし、同時にそんな自分を抱きとめてくれる神を希望とします。大斎において、私たちは痛悔と喜びの二つの涙によって洗われます。良い大斎を過ごしましょう。

​エッセイ
​「公正世界仮説」

 「公正世界仮説」と呼ばれる社会心理学用語があります。これは「公正世界誤謬」とも呼ばれ、いわば一種のバイアス(認知の歪み)を表す用語です。細かく説明すると難しい概念なのですが、ごくかいつまんで言えば「この世界は公平である」あるいは「公平でなければならない」という思い込みが「公正世界仮説」です。人間の思考は、ひどい目に合っている人を見たら「この人は何か悪いことをしたことの報いを受けているのだ」と思い込み、悪いことをしているのに大いに羽振りがいい人を見れば「いつか報いを受けるときが来る」と考えたりします。逆に自分が現在不当にひどい目に合っているのならば、やがて(場合によっては死後に)大きな報償を受けるに違いないと自分を慰めます。この発想はキリスト教の中にも存在しますし、ある意味では人間の人生を支える強い力にもなり得ます。しかしこれが行きすぎると、この「公正世界」という思い込みは暴走し、私たちの認識をあらぬ方向に捻じ曲げていく原因となってしまいます。


 その一つの強い表れが私たちの感じる「不公平感」です。「なんで同じように生きているのに、あの人はいい目を見て、一方で私はこの程度なんだ。ズルい」と憤る気持ちが湧いてきます。「不公平じゃないか」というわけです(そもそも同じように生きている、という認識もまた歪んだ認知なわけですが…)。この不公平を解消するためには自分を上げるか、相手を下げるしかありません。昨今SNSなどで有名人が炎上したり、誹謗中傷の嵐に巻き込まれたりするのは、「悪いことをしている(あるいは間違った考えを持っている)のにあんな地位で美味しい思いをしている奴を引きずり降ろさなければならない」という「公平感」「公正さ」の暴走であると見なすことができるでしょう。「公正さを実現するためには悪い奴、間違った奴は罰を受けねばならず、私自ら天に代わって裁きを下してやる」とここまで来たら恐怖を覚えるほどの「公正世界誤謬」です。


 私たちキリスト者はこの恐るべき「公正世界」のバイアスに巻き込まれないように気を付けなければなりません。そもそもこの世界は本当に公正なのかということに疑いを持っても良いでしょう。少なくとも人間の目で見える範囲では神さえも不公正に映ります。ぶどう園で朝から一日働いた人にも、夕方一時間働いた人にも同じ銀貨一枚を給料として与える(マトフェイ20章)方=神は、私たちの目には不公正に見えるかもしれません。巻頭で触れた放蕩息子の兄弟の扱いもまた不公平です。義人イオフ(ヨブ)に至っては何も悪をなしていないのに、過大な試練を課されました。神の公正さは私たちとは違う次元にあるのです。神はすべての存在を創造し慈しみ、愛と恵みを注いでいるという点において公正であり、その公正さは私たちの理解できる地上の公正さで表現されるとは限りません。そして人間が神の公正さを理解するには限界があります。だからこそ私たちはこの世界の「公正さ」に過度にこだわるのではなく、あらゆることについて神を信頼し神に委ねなければなりません。大斎を迎えるにあたり、私たちはいま一度自分の内面について見直して、奇妙な思考の歪みに囚われていないかを省みる必要があるかもしれませんね。

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