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​不来方から

​不来方から

盛岡管轄区の教会報「不来方から」の一部の記事を抜粋して掲載します。

9月号
​巻頭
「ハリストスの十字架、ハリスティアニンの希望、迷う者の導き」

 4世紀、それまでキリスト教を国家の敵として迫害してきたローマ帝国は方針を転換し、帝国の公認宗教として迫害を禁止することになりました。当時主の福音を信じる者が増え、禁止されていても実際には帝国の高官や高級軍人にも多くのキリスト者がいたことが背景になっているとも言われています。その最たるものが、時の皇帝コンスタンティヌスの母エレナ太后でした。エレナはキリスト教公認以前からハリストスを信じる者であり、信仰が公認され大手を振ってキリスト者であることを表明できるようになった今、彼女には叶えたい長年の夢がありました。それは聖地エルサレムへの巡礼です。またエレナは巡礼とともに、主が磔にされた十字架を探し出したいという願いも持っていました。エレナはエルサレム総主教マカリイとともにゴルゴタの丘周辺を探索し、ついに主の十字架を発見したと正教会の伝統は伝えています。主の十字架の木片はそれに触れるものを癒し、そこを通りかかった死者は甦りました。主の十字架を一目見ようと多くの人々が押し寄せたので、総主教は十字架を高々と掲げ、人々はその十字架をひれ伏し拝み、口々に「主よ、憐れみたまえ」と祈ったということです。これが十字架挙栄祭で祝われる出来事で「挙栄」とは高く掲げることを意味します。

 さて、ハリストスは弟子たちに、つまり私たちに向けて「自分の十字架を背負って私についてきなさい」と命じられました。主が自分が釘打たれる十字架を背負いゴルゴタの丘を登ったように、私たち一人一人にも背負うべき十字架があるということです。自分が「背負いたい」十字架ではなく「背負わなければならない」十字架です。私たちがキリスト者として生きようとするとき、すなわち主の復活を信じ、その復活が自分自身にも与えられることを望み、神を愛し隣人を愛する生き方をしようとするとき、しばしばつらい試練や重い課題が私たちにのしかかってきます。そんな生き方をせずに、「普通の人」と同じように自分自身を楽しませることを目的に生きたほうがずっと楽であることに気付いてしまうこともあるかもしれません。あるいはキリスト者である無しに関わらず、決して投げ出してはならない大切なものを背負い込んでいることもあるかもしれません。例えば世話をすべき家族、社会に対する責任などです。

 私たちが自分の十字架を背負い人生の旅路を歩いていく時にいつも目標とすべき到達地点に立っているのは主ご自身の十字架です。主は人々と世界全体を救い、復活の永遠の生命への道筋を開くためにご自身の苦しい死を受け入れられました。主がここまでされたのは人々と世界全てを愛しているためでした。丘の上に主の十字架が高く掲げられているから、私たちもそこを目指して歩いていくことができます。主の十字架に倣い、私たちも神と隣人への愛のために背負っている十字架を手放さず歩きます。そんな私たちにとって主の十字架は、愛の成就の証拠であり救いの確信でもあります。私たちは主の十字架を「勝利の印」として高く掲げます。私たちが生きていく意味はここにあるということを高々と示します。

 私たちが高く掲げられた十字架を仰ぎ見る時、私たちは主を思い出し強く勇気付けられます。そしてその主の十字架を目指して自分の十字架を背負ってひたむきに歩く姿は、世の人々を照らす光となるでしょう。十字架挙栄祭の日は、私たちは主の十字架、自分自身の十字架を改めて見つめなおす機会となるのではないでしょうか。

​エッセイ
​「地獄」

 先日テレビを見ていたら、サンドウィッチマンと芦田愛菜さんの「博士ちゃん」という番組に、地獄が大好きな子ども博士ちゃんが出演していました。彼は仏教の教える地獄に興味津々で、子供とは思えない知識量でスタジオの三人に仏教の地獄について解説していました。実のところ、確かに仏教の教える地獄の細かい「設定」が面白いのは事実で、八大地獄や、それぞれの地獄にはどのような罪を犯した人が入れられるのか、地獄ではどのような刑罰を受けその期間はどのくらいなのか、という妙に具体的な話は興味をそそられます。彼は「地獄に行きたい!」と言ってご両親を困惑させていましたが、まあ確かに笑顔で地獄に行ってみたいと言われたら苦笑いするしかなさそうです。

 さて、キリスト教の教える地獄には仏教の教えるような細かい設定はあるのでしょうか。確かにルネサンスのイタリアの詩人ダンテの描く「神曲・地獄編」では、地獄の構造や入れられている人々についての描写はあります。とはいえダンテの神曲は当時のローマ教会の地獄についての考えを膨らまして書かれたエンターテインメントですから、私たちが地獄について考えるときの参考にはあまりならないでしょう。あるいは聖書ではウジも火も尽きることがないゲエンナという場所、地獄について記されている箇所もありますが、仏教の地獄のように具体性に富んだ書き方ではありません。

 正教会ではむしろ地獄を、どこか地の底にある刑罰の場所というよりは、私たち一人一人の心の中にある一種の状態として捉えます。私たちの心が愛を拒絶する状態にあるのならばそれが地獄です。神からの愛も、人からの愛も拒絶し、全てに背を向けて恨みと憎しみを募らせている状態こそが地獄です。全ての物事が忌まわしく疎ましく、誰からも愛されていないという思い込みにがんじがらめに縛られて、心に恨みの炎をたぎらせているその火の苦しみが人を苛む地獄の炎です。そのような状態にあると、神や隣人から注がれる愛も、むしろその人にとって苦しく鬱陶しい責め苦となります。少しでも人を恨んだことのある人ならば、その炎がいかに苦々しい、心を痛めつけるものかということを知っているはずです。地獄の苦しみは私たちの内面にある孤独と憎悪から生まれます。私たちが救済されるということは、この自縄自縛の苦しみの中から、自分自身も含むすべてを赦し赦され、軽くなって神の懐に入って全ての愛を素直に受け取れるようになることです。

 さて、先述の地獄に興味津々の博士ちゃん、地獄に行きたいようですが、お父さんお母さんは彼の閻魔大王めぐりに付き合ってくれているし、彼の地獄トークを苦笑いしながらよく聞いてくれるし、彼もお父さんお母さんと話していて楽しそうだったし、実のところそこには愛が感じられるわけです。この博士ちゃんはまだまだ地獄に遠そうだな、と安心したのでした。

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