
不来方から
不来方から
盛岡管轄区の教会報「不来方から」の一部の記事を抜粋して掲載します。
5月号
巻頭
「我等の神は天に在り、地に在り、およそ欲する所を行う」
ハリストスは復活の後40日を弟子たちとともに地上で過ごし、その後エレオン山の山頂から天に昇っていきました。このことを祝うのが「昇天祭」です。そもそも至聖三者のお一方である永遠の神の子は聖神の働きによって人間の女性、生神女マリヤの胎内に宿り、そしてこの世界に人間として誕生しました。赤ん坊として生まれ、成長し、身体も大きくなってご自身も大工として働いたイイススは、やがて神の国の到来を告げ知らせ、多くの奇跡を行い、人々をご自身の元に招き、そして十字架上で殺され死を甘受しました。しかしその死はイイススを滅ぼし無に帰すことはなく、イイススは死から復活しました。イイススの死と復活により、滅びの運命に絡めとられていた全ての生命は死から解放され、永遠の生命に至る道筋が開かれました。この大業を成し終えたイイススが天に帰られるのが昇天という出来事です。しかし仕事を成し終えたからと言ってイイススが人間であることを辞めたわけではありません。イイススは天に昇っても依然人となった神であり続けます。
神の子にとって「人間」とは仕事の間だけ着て、仕事が終わったら脱ぎ捨てるコスチュームのようなものではないのです。神・父、神・聖神と分かちがたく一体であり、永遠に神である神・子はその至聖三者の三位一体を保ったまま人間となりました。神を辞めて天から下ったのではありません。神のまま天を降り人間となったのです。そして私たち一人一人の人間、ひいては被造物のすべてと分かちがたくひとつとなり、私たちが歩むのと同じようにその人生を歩まれました。ハリストスが歩いた人生は私たちの人生であり、そこにある楽しみも喜びも、辛さも悲しみもすべて私たちが知っているものと同じものです。しかもそれは一時のかりそめの姿ではなく、今後永遠に未来永劫人間であり続ける、被造物であり続けるというものです。これが神の人間への、被造物への究極的な愛の形です。ハリストスは人間を辞めて天に昇ったのではなく、人間のまま天に昇っていきました。神が私たちの人生を歩んだように、私たちも主の歩いた道筋を追って復活し天に昇っていくためです。
そして神・子が人間であり続ける限り、私たちとハリストスとの間に別れはありません。主は私たちと同じ人間という存在だからです。司祭が聖体礼儀で唱える祝文にこのようなものがあります。「ハリストスよ、爾は神なるにより、体にて墓に在り、霊にて地獄に在り、右盗とともに天堂に在り、父と聖神とともに宝座に在り、限りなき者として一切を満て賜えり」。神であり人である主にとって時間的な制約も空間的な制約も主を縛るものとはなり得ません。主は天に在りつつも地上の私たちとも共にあります。主が天に昇っていったとしても、しかしそれは地との別れではなく、いつも一切を満たしているハリストスは私たちと分れ難く一体です。天にも地にも、死者の国にも神の宝座にもあまねく臨在する主ハリストス、その臨在を喜び確信することがこの昇天祭の大切な意義なのです。
エッセイ
「ルサンチマンとキリスト教」
「神は死んだ」という言葉で有名なニーチェという思想家がいます。彼はキリスト教的価値観を嫌い、人間中心の思想を打ち立て、ある意味ではキリスト教の天敵のような人物ではあるのですが、確かにキリスト教の痛いところを突かれているという側面はあります。ニーチェは「ルサンチマン」という概念に注目します。これは言わば、自分の人生の辛さや苦しさに対する、恨みや僻み、劣等感というネガティヴな感情です。それを力強く自らの力で解決していくのではなく、「強いものは実は悪いものだ」「弱さや貧しさこそが善なのだ」と価値観を逆転させて自らを慰め、自分の上にのしかかる強者への劣等感を歪んだ優越感で解消しようとする、あるいは「この世を謳歌する強者はいずれ神の裁きにあって滅び、弱者こそが天国に入れられる」という期待にすがる。これこそがキリスト教の起源であるとニーチェは言います。一人のキリスト者として、それは違うと言いたいところですが、確かにそういう側面が全く無いと言い切れないのが辛いところです。
旧約聖書を読めば、「私に恥をかかせた敵に復讐する」とか「私を虐げる者を神は裁く」というような、「弱者であるイスラエル」の「いつか神が私たちこそを高みに引き上げて、今まで威張っていた異邦人を屈服させる」というなんとも恨みがましい物言いがしばしば見つかります。一部のカルト的キリスト教の「裁きの時に自分たち信者だけが天に引き上げられ、選ばれなかった人間はゲエンナ(地獄)に堕ちる」という強硬な主張、自分たちは選ばれた者であり、現世でどれだけ威張っていても選ばれない人間は神の裁きによって滅びるという「終末」に感じているどこか後ろ暗い悦び。そういう姿は確かにニーチェの「ルサンチマンのキリスト教」という指摘を否定できるものではないでしょう。
しかしキリスト教は本来そのようなものではないはずです。ハリストスが受難の時、自分を虐げ苦しめるものについて神に求めたのは復讐ではなく赦しでした。私たちの「敵」は私たちに劣等感を与える強者や富裕層ではなく、むしろそのような劣等感を私たちの心に吹き込む悪魔です。劣等感とは裏を返せば優越感への強い渇望です。ですから「あの豊かな、強い」誰かが悪魔の手先として私たちを苦しめているのではなく、むしろ私たちの心にいつの間にかへばり付いていて、もっとも身近なところに存在する自分自身の傲慢な悪の心こそが私たちを苦しめる敵なのです。私たちが敵への勝利を神に祈る時、それは自分のルサンチマンを惹起させる「誰か」への復讐ではなく、自分の心の弱さについてであるべきです。そして私たちの祈りの本質は感謝と讃美であるべきです。感謝と讃美にはルサンチマンの付け入る隙が無いからです。
ニーチェの思想はキリスト教とは相容れないものです。しかしその指摘は時として正鵠を射ていると言わざるを得ないのも事実です。自分の心の中でルサンチマンが首をもたげているな、と気づいたとき、私たちは戦うべき本当の「敵」を見定め、神に祈ることを忘れないようにしたいものです。
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2024年9月号