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​不来方から

​不来方から

盛岡管轄区の教会報「不来方から」の一部の記事を抜粋して掲載します。

7月号
​巻頭
「その声は全地に伝わり、その言は地の果てに至る」

 教会は毎年7月12日に「聖使徒ペトル・パウェル祭」を祝います(日本正教会ではこの時期に全国公会が開かれるため、なかなか地元の教会でお祝いする機会は少ないのですが)。この祭日は名前の通り、聖使徒ペトルと聖使徒パウェルら、使徒たちの働きを讃え、使徒たちに偉大な働きを成す力を与えた神を讃美する日です。使徒とはハリストスの伝道活動に付き従い、主の受難と死、復活を直接目撃し、その福音を世界に伝えることを命じられた主の直弟子たちのことです。聖使徒ペトルは十二使徒と呼ばれる、もっとも主の近くで活動した弟子たちの中の一人でした。また聖使徒パウェルはハリストスとの出会いの形こそ他の使徒たちとは異なりましたが、最初期の教会において最も精力的に活動した人物です。


 さて、初代教会において使徒たちの働きは偉大であり、彼等の働きがあったからこそ、教会の礎は固く立てられ、今日に至るまで教会は「使徒の会」として連綿と引き継がれ続けています。ではこの使徒一人一人がそもそも最初から「偉大」な人物であったのかと問えば、必ずしもそうとは言い切れません。聖使徒ペトルは特に学もない一人の田舎の漁師でした。福音書を読むと、イイススを愛する情熱的な男であることは分かりますが、一方で彼のやや軽率な側面、イイススの言葉を正しく理解していない場面、そして臆病な人間である部分もしばしば描写されています。「イイススがどんな苦難に遭うとしても、自分はイイススに従い一緒に苦難を受ける」と宣言したにも関わらず、イイススが逮捕されると彼は人々を恐れイイススの弟子であることを三度続けて否定します。また聖使徒パウェルは一貫して強い人物として聖書には書かれていますが、初めはその強さをキリスト者の迫害のために用いていました。彼はハリストスを信仰する最初期のキリスト者を次々捕え、ユダヤ教の法院に送り込んでいました。彼らは必ずしも最初から模範的な「キリスト者」ではなかったのです。


 しかしペトルは主の復活の後にイイススから「シモン(ペトルの本名)よ、私を愛するか」と三度問われ、三度主を否定したことを赦されます。そして「我が羊を牧せ」と教会を導いていくことを命ぜられます。パウェルはキリスト者を捕えに行く途上、突然強い光に撃たれ神の声を聴きます。主から「なぜ私を迫害するのか」と問われたパウェルは目が見えなくなってしまいました。しかし主に遣わされた人物によって彼の目は開かれ、それ以来パウェルは今までの人生とは真逆に、主の福音を告げ知らせるために世界を駆け回ることとなります。主との出会いが人を変え、人に力を与え、偉大な使徒と成すのです。


 これは私たちにおいても同じことです。ペトルにはペトルの、パウェルにはパウェルの、主との出会いと対話があったように、私たち一人一人にも主との出会いと対話があります。それはペトルのように直接に顔を合わせることでも、パウェルのように特別な幻視体験の中で主の声を聴くことでもないかもしれませんが、神は様々な方法で私たちにいつも呼び掛けています。もしかしたらそれは何気ない隣人の一言を通じてかもしれません。あるいは本の一節、映画の一シーンを通じてかもしれません。私たちと主との出会いはそれぞれの人のために作られた、その人のためだけのオーダーメイドの出会いです。そして主との出会いを体験し確信したとき、私たちは「使徒から連綿と繋がる者」、すなわちキリスト者の使命を果たすため呼び出されています。その使命は多くの人を教会に呼び集め、ハリストスの体である教会をより豊かで暖かなものとし、光り輝く生命の溢れる場とするための働きです。使徒の人生、使徒の働きを思い出すとき、私たちはいつもそれを私たち自身の人生、私たち自身の働きとして捉えなければならないのです。

​エッセイ
​「デッドボール」

 岩手県出身の大谷翔平選手が相変わらずアメリカのメジャーリーグで活躍しています。さて、先日大谷選手の所属するロサンゼルス・ドジャースと、同地区、同リーグのサンディエゴ・パドレスの間に不穏な事件が起こりました。両チームがそれぞれ対戦相手に多数のデッドボールを与え、それが故意なのではないかと双方の死球報復戦となってしまったのです。大谷選手も2度もボールをぶつけられ、試合は緊迫した状況に陥りました。


 実のところメジャーリーグでは報復の故意死球というのはしばしば行われ、相手の不誠実なプレーに対して故意のデッドボールで復讐をするそうです。ぶつけられた側は故意死球に対してさらに復讐の死球を与え、だんだん双方の緊張が高まり、死球の応酬が止められなくなっていきます。まして同地区同リーグの相手であればなおさらエキサイトしやすい下地があるということでしょう。


 この報復の応酬はある意味では非常に「人間的」な行為ともいえます。人類最古の法典と言われるハンムラビ法典で定められているのは「目には目を、歯には歯を」の「同害復讐の法則」です(これは復讐のし過ぎを戒める目的であったとも言われていますが)。今の世界各地で行われている戦争や紛争にも報復の応酬という面があります。「やられたらやり返す」「やられたのにやり返さなかったら舐められる」。このような意識があるからこそ、私たちは復讐の連鎖を止められません。自分が「やられた側」で終わるのは極めて不名誉で弱々しいことであるという認識が人間にはあるのです。


 しかしやられたらやり返すことが本当に「強く立派なこと」なのでしょうか。少なくとも、私たちキリスト者にとってそうではないはずです。右の頬を叩かれたら左の頬を差し出せと語られるのがハリストスの教えでした。自身が囚われ侮辱され殺されても、復活したイイススが天使の軍団を率いてエルサレムの神殿を襲い、指導者層を皆殺しにしたりはしなかったのです。残念ながらハリストスのこの姿勢は、後世のキリスト教徒に十二分に受け継がれたとは言い難い。もちろん中には復讐や抵抗をせず、主のための死を甘受した致命者たちも存在しますが、今なお「キリスト教国」と呼ばれる国の人々が復讐の応酬に加担し、もはやどちらが最初にきっかけを作ったのか分からない(しかしどちらも相手こそが最初に引き金を引いたと言うことでしょう)争いを続けています。


 話を冒頭のデッドボールに戻しましょう。大谷選手は2度目の死球を受けた時、チームメイトが怒り、グラウンドに飛び出しそうになるのを手で制しました。ルール通り粛々と一塁に出塁し、次の打者の打席になればそれでいいじゃないか、ということです。確かに大谷選手にぶつけられた球は故意だったかもしれないし、それには報復の意味が込められていたかもしれません。しかし大谷選手はその「故意」や「復讐の思い」をあえて汲み取らず、正当なプレーに戻ろうとしました。この大谷選手の姿勢を球場の両チームのファンたちは惜しみなく賞賛しました。私たちも本当は「何が正しいのか」「何が強さなのか」知っているのです。知っているから彼の姿勢は賞賛されるのです。逆に復讐に走り、舐められないために報復を行おうとするのは、人間の弱さの故であり、偽りの強さの誇示に過ぎません。国際間の緊張は私たちにとってあまりに遠く大きすぎる話かもしれません。しかし日々の生活の中の些細な出来事であっても同じことです。復讐の思いが首をもたげてきたとき、私たちの本当の強さとは何か、一歩立ち止まって考えてみたいものです。

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盛岡ハリストス正教会(司祭常駐)

019-663-1218

 

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1-2-14 Takamatsu, Morioka city, Iwate pref. 

morioka.orthodox@gmail.com

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​80-1 Magata, Odate city, Akita pref.

http://www.wp-honest.com/magata/

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