
不来方から
不来方から
盛岡管轄区の教会報「不来方から」の一部の記事を抜粋して掲載します。
10月号
巻頭
「至聖なる生神女よ、我等を救い給え」
生神女庇護祭は東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルが異邦民に包囲れた時、聖堂に生神女マリヤの姿が現れ、オモフォル(主教が着用する長い襟巻)で町を覆い守ったという奇跡に由来します。また私たちは祈祷の度に「至聖なる生神女よ、我等を救い給え」と祈ります。生神女は私たちを守り救うお方であると正教は考えています。
さて、では生神女が私たちを守り救うとはどういう意味なのでしょうか。全知全能の私たちの救いの源は神以外にはいないのではないでしょうか。それなのに生神女に庇護と救いを求めるのはなぜなのでしょうか。一部のキリスト教会は、マリヤに救いを求めることは不純な信仰であり、本来神に向けられるべき祈りが一人の人間であるマリヤに向けられることは一種の偶像崇拝であると非難します。これに対して私たちはどのように考え答えればいいのでしょうか。
確かに救いの源は至聖三者である神のみです。神の子が人となったイイスス・ハリストスが私たちに救いをもたらしました。それは生神女や諸聖人たちにできることではありません。生神女や聖人は神の生命を輝かしていますが、その生命の本源は神にあるからです。私たちが神に向ける思いや祈りと、生神女や聖人に向ける祈りや思いは質が異なるはずです。神学用語を使えば、神に対しては「崇拝」、聖人たちに対しては「崇敬」という言葉でその違いは表現されます。神に対しては救いそのものを願い祈り、生神女や聖人たちには神が私たちに救いをもたらしてくれるよう取りなしてくださいと願い祈るのです。
……と、神学的に考えればこのように説明することができますが、もっと簡単に感覚的に理解したほうが有意義かもしれません。すなわち私たち教会は「家族」だからということです。聖体礼儀が始まる前、司祭は至聖所で奉献礼儀という祈祷を行います。聖体礼儀で用いる祭品(パンとぶどう酒)の支度をする祈りです。その祈祷の中で、5つのパンから切り出した小片をディスコス(皿)の上に並べていくのですが、その並べ方は正しく決められています。まずハリストスを示し後に聖体となる「小羊」と呼ばれる大きな四角のパンが真ん中に置かれます。次に生神女を示す三角の小片が向かって左側に置かれます。さらに諸聖人たちを示す九つの小片が向かって右側に置かれます。ハリストスを生神女と聖人たちが囲んでいる姿がそこに示されています。続いてその下側に現在生きている人々の名前を呼びながらくり抜いた小片を一列に並べていきます。さらにその下に次はすでに永眠した人々のための小片を並べます。皆さんが聖パン記憶した方々の名前はすべて読み上げられこの二列に加えられます。するとディスコスの上に一つの景色が浮かび上がってきます。丸い皿の真ん中にハリストスがおり、生神女と諸聖人たち、そして生者、死者がハリストスを囲む姿が描き出されました。ディスコスの上に並べられたパンのかけらは私たちの教会の肖像です。あらゆる人々がハリストスを家長とした家族の一員であることが直観的に理解されます。もし何か大きな願いがあるとき「決定権のある人だけに願えばいい、決定権の無い人に話しても無駄だ」というのは家族においてはあまりに無味乾燥な関係性です。確かに私たちの救いに関する決定権を持つのは神お一人です。しかし私たちは神も含めた大きな一つの家族なのですから、他の家族にもそのお願いを話しておくことはとても暖かく大切なコミュニケーションなのです。祈りや救いは会社やお役所的「システム」なのではなく家族的「コミュニケーション」であると理解すれば、私たちが生神女や諸聖人に祈りを伝えることの意味がおのずと受け入れられるのではないでしょうか。
生神女庇護祭は「生神女による守り」という出来事の記憶を通じて、私たちの守りや救いを祈る祭日です。この機会にぜひ私たちの教会はどのような家族なのかということを、大きな視点で深めてほしいと思います。
エッセイ
「夜から応援しておくさ」
今年の夏の甲子園は沖縄尚学高校の優勝となり、地元の盛り上がりぶりはニュースなどでも報道されていました。そんな中私はある面白い歌を知りました。「島人ぬ宝」などで知られる石垣島出身のバンド「BEGIN」の「オジー自慢のオリオンビール」という曲です。
今日は那覇市のビアガーデンへ
野球応援 甲子園
明日は準々決勝ど
夜から応援しておくさ
引用した歌詞からも沖縄の人たちの高校野球好きがうかがわれます。この歌は2003年発売なので今年の沖縄尚学の快進撃とは直接関係はないはずですが、きっと甲子園のシーズンは毎回こうなのでしょう。そして楽しいことはお酒を飲みながらみんなで共有して大いに盛り上がろうという精神も分かります。「決勝の日は沖縄県内では誰も仕事しないさー」と言われていましたが、確かに前の夜から「応援」していたらそれもその通りかもしれません。
そんなわけで「面白いな」と思ってこの歌を聞いていたのですが、そこでハタと気付いたのです。本来はキリスト教も「前の夜から応援」するものではなかったか。「教会は神の国の先取り」という神学的理解があります。神の国は「いつか来る」ものではなく「すでに始まっている」ものであり、教会は聖体機密の神秘的恵みの中で神の国に引き上げられ一致し啓示されるというものです。文章で書くと非常に難しいですが、ごく平たく言えば、教会は来たるべき神の国のプレオープンであるということです(少し乱暴な説明であることはご理解ください)。教会は神の国を先取りし、その喜びの中で、神の国が完全に成就する終末の時を待ち望むのです。その証拠に古代の教会の人々は「マラナタ」と挨拶していました。これは「主よ、来たれ」というハリストスの再臨、つまり終末を待ち望む言葉です。
今や「終末」という言葉にはおどろおどろしい恐怖のイメージが付きまとい、あるいはオカルトの出汁にされ、やれ地球最後の日だ、やれ恐怖の大王だと面白おかしく語られたりします。一部の「マジメ」なキリスト教会でも、最後の審判の恐ろしさを強調し、地獄に落ちるとどんな苦しみが待っているのかを語り、こうなりたくなかったら神を信仰せよとお説教をしたりします。しかし本来「終末」の本質は復活の生命の喜びであり、その成就の時を待ち望みながら、喜び祝い楽しむのが教会という集まりだったはずです。まさに来たるべき喜びを先取りし、前の「夜から」先に始めてしまっている宴会なのです。
さて、今年「夜から応援」していた沖縄のオジー達にとって、実際に沖縄県勢の優勝が決まった時の喜びはその前夜よりはるかに大きいものであったことでしょう。私たちがまだ知らない「その時」の喜びもまた、想像がつかないほどの喜びであるはずです。そのことを心待ちにして教会は「その時」まで前夜の喜びを祝い続けるのです。
バックナンバー
2024年9月号
