
不来方から
不来方から
盛岡管轄区の教会報「不来方から」の一部の記事を抜粋して掲載します。
3月号
巻頭
「三日目の聖なる復活に至らん為なり」
いよいよ大斎が始まりました。来たるべき復活祭の喜びに備え、自分自身を鍛え、清める期間です。その目的のための実践として、食べ物の節制があり、日々の重厚な祈祷の積み重ねが用意されています。実りある大斎を過ごすことは、私たちの信仰を強め、パスハの喜びを何倍にも大きなものとするでしょう。
ではいったいどのように大斎を過ごせばいいのか、どういう心構えが必要なのか。それを知りたければ、答えは私たちの祈りの言葉の中に示されています。教会には「三歌斎経」という分厚い祈祷書が備えてあります。これは大斎準備週間から、復活祭の前日である聖大土曜日までの祈祷を網羅し一冊にまとめた祈祷書です。およそ70日間に祈るべき言葉がそこには詰め込まれています。大斎の初日である第1週月曜日の早課にはこのような言葉が書かれています。「我等、喜ばしくいと尊き節制を始めて、ハリストス我が神の聖なる誡めの光線、愛の光明、祈祷の光照、潔浄の美麗、勇毅の能力を以て輝かん。光を衣たる者として世界に不朽を輝かす三日目の聖なる復活に至らん為なり」。大斎を通じて何を得るべきなのか、大斎は何のためにあるのかがこの一節に込められています。神の戒めを守ること、愛の心、祈りの心、汚れない清らかさ、神の為の強さを得るために大斎に取り組むぞ、ということです。そしてそれは「三日目の聖なる復活」すなわちパスハで祝われるハリストスの復活を祝うためだよ、ということもこの祈りの言葉から読み取ることができます。またこの節の中で最も重要なのはこの節制=大斎が「喜ばしく」行われるということです。悲嘆や苦行ではなく、自分自身を磨き清め、より強い者とするこのトレーニングを喜ばしいものとして行うのだということも、この祈祷文は教えています。
このように、大斎期間を通じて祈祷書の言葉は私たちに大切なことを教え続けてくれます。ある時は主に憐みを乞う心を教え、ある時は痛悔の涙を教えます。私たちに真心からの思いがあるから祈るのではなく、祈りの言葉を読み唱えることで私たちの心に真心が生まれてきます。私たちがいくら言葉の上で大斎は痛悔の時期ですと言っても、食べ物の節制に取り組んでも、それらの意義が分かっていなければあまり大きな効果は得られません。しかし祈祷の中で、祈りの言葉に耳を傾け、文章を目で追い、自分自身の心の中に入れていくのならば、それらはより多くの意味を持つものとなるでしょう。
今年の大斎はまだ1か月以上続きます。平日の祈祷も何度も行われています。ぜひ参祷して、そこで何が祈られているのか、どのような言葉が紡がれているのか、大いに学びにしてほしいと考えるものです。
エッセイ
「一番大切なのは愛」
岩手県内でローカルなテレビ番組を見ていると、岩手銀行のCMを目にする機会が多いですよね。そんないわぎんの最新CMが、女優ののんさんの「人生良いことばかりじゃない」というセリフから始まるもの(のんさん自身色々あったからなぁ、リアルな重みだなぁ、と思うのは余計なお世話かしら)。そのCMで流れる歌詞で「夢がある、希望がある。でも、一番大切なのは愛」という言葉があるんですね。それを聞いた時にふと、聖使徒パウェルみたいなこと言うなぁ思ってしまいました。
聖使徒パウェルはギリシャのコリントの町の教会の信徒にあてた手紙の中で「とにかく愛が一番大切なんだ」ということを強調します。どうもコリントの教会には「不仲」という問題があったようで、信徒同士の派閥争いのようなトラブルが絶えなかったようです。パウェル自身、コリント教会の立ち上げに尽力したこともあり、彼らに正道に立ち返ってほしいという思いでコリント人への第1の手紙(コリンフ前書)を書き送りました。パウェルはキリスト者にとって大切な心として「信仰、希望、愛」を挙げますが、その中で最も大切なものは「愛」であると述べます(コリンフ前13:13)。また強い信仰を持っていても、どれだけ知識が豊富でも、あるいは神の言葉を預言するような特別な力を持っていても、愛が無いのであれば何の意味もない。むしろうるさく耳障りなシンバルや銅鑼みたいなものとまで言っています(13:1-3)。コリントの教会の人々は確かに優秀だったのでしょう。さまざまな能力も、社会的地位も、強い信仰も持っている人たちが集まっていたのかもしれませんが、しかしそこには尊敬し合い、受け入れ合う愛が不足していました。「あなたたちの立派さや優秀さなんて、愛が無いのならば何の意味もないぞ」という、聖使徒パウェルからの、まさに「愛ある」叱責がコリンフ前書の真骨頂であると言えます。
大斎の期間、私たちの関心はつい食べ物の節制のことに向きがちです。あるいはどれだけ祈祷に参加できたかを指を折って数えることもあるかもしれません。もちろん節制も祈祷も大切です。ものすごく大切です。ですが、もしそこで「愛」を育めないのであれば、それは「やかましい銅鑼やシンバル」と同じなのかもしれません。
大斎の節制と祈祷に真剣に取り組むと、私たちの心身は様々な感覚を受容します。慢性的な空腹感を体が訴えていることに気付いたり、祈祷後に食べるご飯と野菜のおかずの美味しさが染み入ったり、伏拝の動作の繰り返しで筋肉の動きを感じたりします。あるいは祈祷で読まれる言葉の中に意義深いフレーズを見出したりします。しかしそれらの体験は全て「愛」という縦糸の中に織り込まれていかなければなりません。そうでなければそれらはただの自己満足、自己陶酔に終わり、益というより害にさえなってしまうかもしれないからです。逆に愛を軸としてそれらの体験が位置付けられたとき、私たちの信仰や希望はますます強められることになるでしょう。
大斎は実は何より「愛」を見出し育んでいく期間です。ハリストスが私たちを愛しているのだから、私たちも互いに愛し合う者でなければなりません(イオアン13:34)。主が苦難を受け入れ、十字架上で死んだのは私たちを愛するからです。その主の愛の結実である復活を喜ぶためにも、私たちもまた大斎を通して「愛」を学ばなければならないのです。
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2024年9月号