
不来方から
不来方から
盛岡管轄区の教会報「不来方から」の一部の記事を抜粋して掲載します。
1月号
巻頭
「即ち水は流れ渓に溢れ、爾は乾ける爾の民を飽かしめ給えり」
正教会では1月に祝われる神現祭に合わせて「大聖水式」が行われます。清浄な水を用意し(場合によっては川や泉そのもの)、十字架を浸して水への神の祝福を祈ります。神の恩寵によって成聖された聖水は、その後さまざまな物品を清める祈祷のために用いられます。祈祷に用いられるイコンや祭服、聖器物、復活祭の玉子、菓子、変容祭の果実、日々の生活で用いる家、クルマなど、祈祷の言葉とともに聖水が振りまかれます。私たちが一年の行事の中でしばしば行う、この聖水を用いた「成聖」とはそもそも一体何なのでしょうか。
水はこの世界を形作るもっとも基本的な材料のひとつです。近代の科学的な論を持ち出す必要もなく、古代から人々は水の中に万物の根源を直観していました。世界のあらゆるものに水が含まれ、水はあらゆるものに浸透していくというイメージです。ですからひとたび水が汚されてしまえば、その水は万物を巡りこの世界のすべてに汚れを届けてしまいます。一方で水が清まれば、その清らかな水はこの世の隅々まで行き渡り、汚れを洗い流して新しい生命のエネルギーを運んでくれます。私たちが行う聖水を用いた「成聖」にはこのようなイメージが込められています。
特に正教では、この水の「染み込み巡る」性質が重視されているように思われます。私たちが夏に果実に聖水を振りかける時、清められ聖性に満たされるのはテーブルの上に用意されたその果物だけなのでしょうか?正教の場合、清めのイメージはその果物に代表される地の恵み全体にまで広がっていきます。私たちが「聖別」という言葉をあまり使わないのは、俗なる物の一部を選び出し神に捧げ、その選ばれた物だけを特別に尊いものとして扱う、というイメージを持たないからです。むしろテーブルに並べられた物はその物品の代表であり、その代表である品を清めることによって、その清めはこの世のすべてに波及していくというイメージを持つのです。確かに聖水を振りかけられるのは、私たちが用いる物の中でもごく一部に過ぎませんが、その清めは一部から全体へと及んでいきます。聖水を直接かけられた卵や果実だけが尊いのではなく、この世で神から与えられた食物全てが尊いのです。言い換えれば食物が本来持っている尊さが、神の祝福によって回復され私たちに啓示されます。主が最後の晩餐に先立ち弟子たちの足を洗った時、聖使徒ペトルは「手も頭も洗ってほしい」と主に願いました。しかし主は「足を洗えば全身が清まる」とおっしゃいました(イオアン13章)。私たちが神の前に清めを求めて物品を差し出し聖水をかけられるとき、その清めは全てに及んでいくのです。
だから私たちは聖水を用いた成聖祈祷を行う時、水を直接かけられている物品だけに注目するのでは足りないのです。その後ろに連なっている全ての物が、神の恵みであり尊いものであることに思いを馳せ、この世のすべてが本来聖なるものであることを意識しなければなりません。主が洗礼を受けた時、主に触れたヨルダン川の水はやがて世界全体に染み渡っていきました。世界がハリストスを受け入れ、世界は清められたのです。私たちが聖水式を行う時、聖水を用いる時、この「清めの浸透」のイメージを改めて思い起し、主の恵みの広がりへの感謝と讃美の気持ちを持ちたいものです。
エッセイ
「サンデーサイレンス」
今年が午年だからというわけではありませんが…。かつてアメリカに「サンデーサイレンス」という競走馬がいました。彼は二冠馬となり、引退後は種牡馬として日本に輸入されます。その子供たちの競争成績は凄まじく、一時期は国内G1レースのほとんどをサンデーサイレンスの子供たちで総なめにするような状況でした。彼の死後その子供たちも後継種牡馬として大活躍しており、今日の日本競馬でサンデーサイレンスの血を引かない馬はほとんどいないと言っても良いほどです。
さてしかし、今日ここで話題にしたいのは競馬のことではなく、むしろ彼の馬名についてです。「サンデーサイレンス=日曜日の静けさ」とはいったい何なのか。調べてみると「日曜日のミサの静けさ」と出てきます。実は私はこれに長いこと違和感を覚えていました。なぜかと言えば私たちの日曜日の聖体礼儀は静けさよりもむしろ祝祭性が勝っており、静かというよりは賑やかなイメージだったからです。西の教会ではミサは静かなのかなぁ、などと考えていたのです。
しかし先日、思いがけず「これがサンデーサイレンスか!」と実感する出来事がありました。日曜日の朝、奉献礼儀(聖体礼儀で使うパンとワインの支度をするお祈り。だいたい皆さんが来る前に司祭一人で終わらせています)を終えて至聖所から出てくると、赤ちゃん連れの家族が教会に到着していました。赤ちゃんはゆりかごの中で眠っていて、お母さんはローソクを献灯しお父さんは赤ちゃんを見守っていました。眠っている赤ちゃんを起こさないように声を出さずに微笑みで挨拶を交わしましたが、その瞬間にそこに溢れている愛情にとても穏やかな静寂を感じたのです。赤ちゃんを囲む私たちの後ろから、神や天使や聖人たちもまたその子を見守っているような静けさ。これから始まる聖体礼儀の祈祷は色彩豊かな音に溢れ、教会の喜びが表現されますが、しかしその始まりを待つ時間は静寂に包まれています。その静けさは決して寂しい単なる無音状態ではなく、また「絨毯に落ちた針の音が分かるほど」と形容されるような緊張感で張り詰めた静かさでもありません。暖かく優しい空気に満たされた穏やかさの極致としての静けさこそ、私たちの「サンデーサイレンス」なのだと気付かされたのです。静寂と言ってもそれは無やエネルギーゼロの状態ではなく、むしろエネルギーに満ち満ちた場が静かに揺らいでいる状態とも言えるかもしれません。
そしてこの私たちのサンデーサイレンスは決して赤ちゃんの為だけにあるわけではないはずです。むしろ赤ちゃんのために静かにしていたからこそ気付けたというだけのことです。きっと普段もこの穏やかな静寂は祈祷の前に満たされていて、私たちが少々せわしなく、騒々しいからそれに気付けないだけなのかもしれません。この喜びに満ちた穏やかな静けさを味わうために、祈祷開始のギリギリに飛び込んでくるのではなく、30分早く教会に来て用意をすべて終えて、静かに聖堂の椅子に腰かけて待つ時間を持つのも良いかもしれませんね。
バックナンバー
2024年9月号
