
不来方から
不来方から
盛岡管轄区の教会報「不来方から」の一部の記事を抜粋して掲載します。
6月号
巻頭
「衆彼らを萎まざる花、教会の迷わざる星、
甘んじて己を献げたる祭祀として讃め歌わん」
正教では五旬祭の翌週の日曜日を「衆聖人の主日」と呼びお祝いします。この日、教会に今まで存在した全ての聖人を記憶し、その聖人の業績を通じて神の偉大さが讃美されます。聖人と一口に言ってもその業績は様々です。ハリストスと伝道生活をともにし、死と復活を目撃してその衝撃と喜びの福音を世界中に伝えた「使徒」、教会のリーダーを任され信者の群れを良く導いた主教である「成聖者」、主の福音のために妥協せず生命を賭して信仰を守った「致命者」、修道生活の中で神の似姿を良く実現した「克肖者」、貧しく弱い人々のために力を尽くした「廉施者」などなど、聖人の名前の前に付随するタイトルを知ると、聖人の在り方がいかに多様であるかが分かります。
聖人の在り方は多様ですが、そこには一つの共通点があります。それは彼らが神への愛と隣人への愛に貫き通されているということです。ハリストスが私たちに伝えた最も重要な掟である「神を愛せ」「隣人を愛せ」という教えを体現する生涯を過ごしたのが聖人です。聖人にはしばしば奇跡のエピソードが伝えられますが、神は聖人を通してこの世界に神秘を啓示します。また聖人の遺体は腐敗しないと言われています。逆に遺体から香り高い油が湧き出すことさえあるとも伝えられています。聖なる生き方は死の呪いである腐敗さえ遠ざけるのです。
一方私たちの多くは偉大な奇跡を目の当たりにすることもなく、死んで芳香を発することもなく(日本の場合は火葬なので亡骸の行く末を確かめるすべもないのですが)、「普通の人」として生涯を終えていきます。聖人たちの生き方や奇跡は私たちとは関係なく、あれらはごく一部の神から深い恩恵を与えられた人々にだけ起きる特別な恵みである。そのように思ってしまうこともあるかもしれません。しかしそうではないのです。聖人たちがそもそも私たちと違う特別な人間と思ってしまったら、それは聖人たちの過剰な神格化や崇拝などの誤った信仰へと導いてしまいます。聖人はあくまで私たちと同じように生まれた普通の人間でした。罪を犯したこともあるでしょう。聖人伝を読めば聖人たちが自分の罪に苦しみ、痛悔に至るエピソードも多く記述されています。聖人は神の側に立って私たちを見下ろす人々ではなく、むしろ私たちと同じ側から先頭に立って神へと歩みを進めた兄貴分、姉貴分なのです。時に励まし、時に力を貸し、自分の背中を私たちに見せながら神を求める姿を示してくれるのが聖人であり、その深い信仰心で私たちのために神に祈ってくれるのです。
ですから私たちが聖人に示すのは崇拝ではなく尊敬であり、頼りになる兄貴姉貴に対する愛情は教会の伝統の中で連綿と受け継がれてきました。衆聖人の日に改めてそのことを思い起し、聖人の生き方に少しでも倣うことができるよう心新たにしたいものです。
エッセイ
「ビュッフェ」
バイキングやビュッフェという形式の食事スタイルがあります。お客は空の皿を渡され、そこに好きな食べ物を好きなだけ盛り、席に戻ってそれを食べるというものです。野菜を食べたい人も、肉を食べたい人も、自分の好きなように食べることができる「自由」がそこにあります。しかしその自由は意外ともろい前提の上に成り立っていると言ったらどうでしょうか。
例えば用意された料理を全部自分の皿に盛り上げて持って帰ってしまう人がいたとしたら。あとから来た人はその料理を食べることはできません。あるいは会場で食べることが前提のビュッフェ形式なのに、それをお弁当箱に詰めて持って帰ろうとする人がいたら。そういうことが続けば、店側も一品の量はひとり一盛までとか、そもそもビュッフェの廃止とか、そのような対策を取らざるを得なくなってくるでしょう。結果「自由」は失われ、私たちは「好きなものを好きなだけ食べることができる」という恩恵を失ってしまいます。「自由」は「自分勝手」によって取り上げられ、代わりに「不自由」が課されることになってしまうのです。
正教では「人は自由なものとして創造された」と考えますが、しかしその自由は「自分勝手」とは違います。もちろん自由なので自分勝手に振舞うこともできますが、それは自由そのものではなく、自由のエラー状態であり、主はそのような状態を「罪の奴隷である」と語りました(イオアン8:34)。一見自由に見える「自分勝手」は、自己中心性を根とする罪の状態であり、その罪に突き動かされた行動は実は自由などではなく、ただの奴隷であるというのです。また聖使徒パウェルは罪の状態を「自分のしたいことを行わず、憎んでいることをしている(ロマ7:15)」と表現しています。
もしも私たちが真の自由な状態でありたいと思うのであれば、その鍵は「愛」と「謙遜」の中にあります。ビュッフェの話で例えるなら、料理の大皿の前に立った時に「他のお客さんともこの美味しさを分かち合いたい」とか、あるいは「自分にとって必要なのはこの程度の量だな」とか、そのような優しさと慎ましさをもって料理を盛り付けることが、結果としてその会場にいるすべての人々を満足させます。あるいは残り一個の料理を前にして、隣の人に「どうぞ」と譲った時に、そこには料理を自分の皿に取る以上の「自由」があるのです。「他の人はどうでもいいから自分が食べたいだけ食べたい」「自分が必要としている以上の量でも確保したい」という自己中心性を自分の意志で手放した時に、私たちは罪の奴隷を離れ、真の自由を手に入れるのです。
私たちは今本当に自由な状態にあるのか。いつも自分自身を省みていたいものです。
バックナンバー
2024年9月号