
不来方から
不来方から
盛岡管轄区の教会報「不来方から」の一部の記事を抜粋して掲載します。
7月号
巻頭
「今日光の灯台は光明なる星の如く神の言の降臨に先駆けす」
「前駆授洗イオアン」の「前駆」をそのまま読めば「前を駆ける」となり、これはギリシャ語の「プロドロモス」の直訳です。イオアンの役割はイイススの前を走り、イイススの道を備えることでした。イイススより先に生まれ、イイススより先に宣教活動を行い、そしてイイススより先に殺され死を受け入れました。イオアンの教えの中心は「間もなく救世主=ハリストスがやってくる」ということでした。アダムとエヴァが罪を犯し、永遠の生命を失い死と悪に苦しめられる人間の歴史が始まりましたが、ついに人をその縄目から解き放つ救い主が現れる。だから人々は罪を悔い改めて救世主の到来に備えなければならない、とイオアンは呼びかけました。そして悔い改めの印として洗礼を授け、人々の準備を整えてきました。果たしてイイススがイオアンの元を訪れ、洗礼を受け、神みずからがイイススを「神の子」と呼んだことは1月の神現祭で記憶されます。聖書によればイオアンの教団の勢いは次第にイイススの宣教活動の方に流れ込み、その役割を終えていきます。それを憂えるイオアンの弟子もいましたが、イオアン自身は「救世主ご自身が現れたのだから私は衰えていかなければならない」と衰退をむしろ喜びました(イオアン3章)。
このようにイオアンには徹底して「イイススの前を走る者」としての役割が与えられており、彼はハリストスのために道を準備する者でした。これは旧約聖書全体がハリストスの到来と救済を預言、預象する書物であることと似ています。正教にとって旧約聖書とは人間の陥罪と、そこから始まる神の救済計画の歴史や預言であり、旧約の出来事は常にハリストスに像を結ぶ焦点の中で解釈されます。人間の罪深さに対し時に神の厳しい戒めがあり、その中で一部の人々は神の正しさの中に生きることを実現します。罪と義の間を行ったり来たりしながら人間は少しずつ練り上げられていき、ついに救世主の到来の時がやってくる、というところまでが旧約聖書の時代です。そういう意味では前駆授洗イオアンは旧約聖書の総括であり、新約=ハリストスの時代への橋渡しをする人物であるということができるでしょう。
私たち自身を振り返り当てはめるならば、この「ハリストスを待つ時代」と「ハリストスと出会う時代」というのは自分自身の人生においても見出されるものです。それは単に洗礼の前と後という時間的な話ではなく、もっと意識的な体験であり、そこには「主に従って生きよう」という決意がしばしば付随します。そして自分とハリストスとの確かなつながりを知れば、それまでの人生が、そのために準備されてきた「先を走る者」であったことにも気付きます。そしてそれは一度きりのことでもなく、人生で何度も「より深いハリストスとの出会い」として重ねられていきます。
前駆授洗イオアン誕生祭を機に、私たち自身の「道が備えられている」という感覚を意識してみるのもいいかもしれません。
エッセイ
「パンとワインの道」
司祭として教会に奉職するようになる以前、私はワインの輸入会社の営業としてサラリーマンをしていました。さらにその前には町のベーカリーでパン職人として働いていました。どちらの仕事もやりがいや楽しさがあり、一方で辛いことやしんどかったことも思い起されます。
ワインの営業の会社は、ヨーロッパワインを日本に輸入している小さな会社で、営業マンの仕事はそのワインのサンプルを持って個人宅や会社などを回り、実際に味見してもらって気に入ったワインをダース単位で買ってもらうというものでした(なんという泥臭い!)。ある日、本社のテレアポ部署から「カトリックの女子修道院にアポイントが取れたから行ってほしい」という依頼があり、いつものようにワインのサンプルを抱えて市内の修道院へと営業に行きました。修道院に着くと一人の年配のシスターが迎えて下さって、ワインの試飲をしながらいろいろお話をすることになりました。個人向け営業なので、ビジネスの話より茶飲み話で親しんでもらうことの方が大切です。その中で私もキリスト教徒であるという話をし、さらに「以前パン屋さんでパン作ってました」と言ったら、シスターがころころ笑い出し「あなたは一生パンとワインの仕事していくわね」と言うのです。その時は「ほんとだ、パンとワインの仕事ですね!」と話を合わせて笑いましたが、それは心の中にどこかずっと引っかかる言葉だったのです。そして数年たって会社を辞めて神学校に行き、今はこうやって司祭をしていますが、ふとあの時のことを思い出し「確かに今もなお『パンとワインの仕事』をしているなあ」とシスターの笑顔が心に思い浮かんだりします。
今月号の巻頭に書きましたが、私にとってこれが「道が備えられている」という感覚です。パン屋さんになったのもワイン屋さんになったのも、別に自分の人生のストーリーの筋書きにあてはめて選んだのではありません。単に「大学を中退して何か仕事をしなければならないなあ。食べ物屋さんが良いなぁ」程度の動機で求人雑誌をめくってパン屋さんを見つけただけですし、ワイン屋さんについても大学卒業後(今度はちゃんと卒業しました)、リーマンショックの直後の不景気で就職が決まらず、ハローワークでワイン会社を見つけて「酒の仕事も面白そうだ」と選んだだけです。それが結果として「パンとワイン」というラインで司祭職まで点と点が線で繋がりました。これを「偶然」「思い込み」と言うことも簡単だし、その冷静な観点もまた忘れてはならないと思いますが(安易な神秘主義に陥ってしまうことは危険です)、それでも「備えられていた」という個人的な感覚は自分の中で一つの安心できる錨のような思いとして生きています。
自分の人生に起きることには、善いことはもちろん悪いことや罪深い失敗も含めて意味があって、神がその道を備えて主との出会いまで導いてくれるのだ、と思えることで私はずいぶん楽になりました。神との出会いが、今までのバラバラの人生のエピソードに意味を与え、そして自分は神のために備えられているという肯定感と安心感を与えてくれるのです。
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2024年9月号